今も健在する江戸から続く大阪七墓の蒲生墓地

大阪は京橋、駅の南東側に小さな居酒屋や焼肉屋が並ぶなかで、その合間にひっそりとした墓地があります。よほどの事でないかぎり、そこが墓地であると認識することさえも難しいくらい周辺はそれら建物でおおわれており、わずかばかり見える柵やその隙間を通じて、墓地であることがわかります。

この墓地は歴史が長く、江戸時代で大阪が幕府直轄地になったころからの墓地らしいのです。いつも柵に覆われていますが、柵内に入れるタイミングがあり、中で作業している関係者の方にお断りして入らせてもらい、写真等も撮らせてもらいました。それがきっかけとなり、改めて蒲生墓地のことについて整理していみることにしました。

概要

東側から西側へ向けて撮影したアングル

徳川幕府が大阪の豊臣家を滅せんと大坂冬の陣そして夏の陣が起こり、そして豊臣家は滅びます。その後大坂は徳川幕府の直轄地となり、その街づくりでにおいて、戦で荒廃した各地にあったお墓の統合施策が打ち出されます。それは当時の市街地の外縁部にあたる場所への集約・引っ越しでした。

具体的には、阿波座、三ッ寺、下難波、敷津、渡辺、津の各村の墓地を統合し、下難波村の千日の墓地とし、上町の墓所は小橋村の墓地に、天満の墓所は葭(吉)原、浜(のち南浜と改称)、梅田(当初は曾根崎、後に梅田)の各村の墓地に移転させました。後に、これら5村の墓地に飛(鳶)田村と蒲生(野田村)の2墓地を合わせて大坂七墓と呼ばれるようになりました。このうちの一つが蒲生墓地です。

場所

最寄りは、JR京橋駅となります。北口(京阪とのコンコースがある)が一番近いです。

Googleの航空写真に対象地を赤丸で囲ってみました。

北側には小さな小さな立ち飲み屋、焼き肉屋、居酒屋が軒を並べており、お墓に背を向けるようになっています。一方お墓の南側には有名な居酒屋「とよ」があります。この南側の道路は、かつての野崎街道であり、周囲よりも若干小高くなっています。この京橋界隈の野崎街道についてはこちらを参照ください。ヘリポートがある建物は、1階部にイギリスからの煉瓦で構成された建築物がある「リバーカントリーガーデン京橋」といって135mあるタワーマンションです。

古地図から振り返る

この蒲生墓地、江戸時代初期の頃からあるということは、古い地図にも当然記されていたことが考えられるため、色んな古い地図を調べてみました。

1806年の木版刷り地図

大坂城の北東側に、鯰江川沿い半円状に囲まれた地域に、「蒲生墓」記述があります。蒲生墓の西側(地図の左側には北から流れこむ榎並川をも確認できます。)

さらに拡大してみました。

はっきりと、「蒲生墓」と確認できます。お墓の東側には蒲生村、今は埋め立てられ道路となっている鯰江川をわたると、志喜多(今の地名は新喜多)の文字があります。

その他、江戸時代の大坂の地図の確認しましたが、私が見た地図の中では、蒲生墓地を確認できたのはこの地図だけでした。

1936年(昭和11年)時の航空写真

左側が1936年時です。右側が現代地図です。

この蒲生墓地は中央に大きな路があるのですが、それらしきものを確認できます。墓地の東側には榎並川、南には野崎街道(大和街道)を越えて鯰江川、さらに南には寝屋川を確認できます。水運用の舟も数艘確認できますね。

右側の現代地図は、建屋と道路の合間の空白地(白い)が蒲生墓地であることがわかります。

その他の地図でのお墓記号なども探したんおですが、市街地に近いことと、墓地そのものもそこまで広いものではないため、お墓であることをすぐ確認できる手ごろな地図はありませんでした。航空写真もまた同様でした。

当地の現状写真(2022年1月時点)

たまたま運よく入らせていただくことができたので、墓地内で撮影した写真を一つ一つ紹介したいと思います。

入り口は、大和街道沿い、立ち飲み露天居酒屋の西側にあります。基本柵が閉じています。なんと驚くことに現代でもお墓の空き区画の募集を行っています。つまりこちらの墓地は歴史は非常に古いですが、今もなお墓地として新たなお墓を加えることができるわけです。その際は、蒲生墓地石材店(別看板でした)、もしくは蒲生墓地運営委員会の委員長の吉村様まで連絡ください。電話番号:06-6351-8356

柵より中に入ると六地蔵が迎えてくれます。墓地の入り口等に六地蔵があるのはどこの墓地でもしばしばみられる光景ですが、こちらの蒲生墓地の六地蔵様、どうやら2019年に大阪市の有形民俗文化財されているようです。

大阪市のHPには以下ように紹介されています。

名称:蒲生墓地の石仏群(10躯)

分野/部門:有形民俗文化財

紹介文:蒲生墓地は、北区豊崎に所在する南浜墓地とともに、大坂七墓のひとつであった蒲生(野田)墓所の様相を現在に伝える墓地である。講組織は現存しないが、信仰の中核となった石仏群があり、七墓の風情を今に残している。地蔵堂にまつられる延命地蔵と称される丸彫の地蔵菩薩立像、文化13年(1817)の記銘を持つ半肉彫りの六地蔵、宝暦11年(1762)の記銘を持つ観音・勢至菩薩像、その中尊と思われる阿弥陀堂にまつられる丸彫の阿弥陀如来坐像で、貴重な民俗文化財である。

引用リンクは末尾

お地蔵様は6躯ですので、その他の各種菩薩像、阿弥陀如来像などがあるというわけです。

お地蔵様のエリアを抜けると、墓地の真ん中に一本の路があります。丁度石材店様がお墓の整理をされていまして、重機が入っています。写真の右側(南側)が主に古い墓石が並んでおり、左側(北側)には新しい区画などを確認できます。

過去の地震で倒れてしまったお墓の主塔部を階段状に集めています。石材業者さんに確認したところ、お墓のご子孫らと連絡つかなくなったケースなどは主塔部のみをこうしてまとめている、とのことでした。そして今現在もそうした作業を行っている、とのことでした。

新旧多くのお墓があります。主に古いお墓には白いプレートがつけられています。

多くのお墓についています。

実はお墓の管理料が平成8年(1996年)から不払いとなっており、無縁墓として撤去予定になってしまう可能性を管理委員会の委員長吉村さんのお名前で通達しています。子孫の方々と連絡がとれなくなってから、25年以上が経っているわけです。

古そうなお墓はほとんど子孫の方と連絡がとれていないものと思われます。

一方で、北側(京橋駅側)は新しいお墓(平成30年時のものもありました)、そして区画を確認できます。建屋に近いところにある古いお墓は白いプレートがついていないので、こちらは子孫の方がしっかり管理料を納めているのだと思います。

新しい墓地用のスペースがしっかりと確保されています。

一方で、北側にある飲み屋街はまるでお墓の敷地に食い込むかのように建設されています。どこからがどこまで私有地・墓地なのか微妙なタイミングで無理やり建設されたのでしょうか。。。

墓地の中央にある有形文化財指定されている10躯のうちの2躯だと思います。

実は、残念なばら頭がない石仏もあります。過去の地震が何かの影響、と信じたいです。まさか日本で某宗教の原理主義者のように仏さんの首を刈るような人でなしはいないと思います。

墓地の西側には、非常におおきな石塔を持つお墓があります。しかし残念ながら、周囲は草にまみれてしまっており、今後の清掃が必要とされるところです。

古いお墓が多いですが、最近のお墓には生花が供えられ、周囲の清掃も行き届いています。

人には辛抱が一 イコール お金

蒲生墓地で最も有名な碑かもしれません。

「人ニハ、 | (芯棒=辛抱)、 一 」と縦に書いてあります。

芯棒=辛抱とかけあわせて、 人、二(に)、ハ(は)、|、一 を全部組み合わせると、漢字の「金」にないます。

その他古いお墓

珍しい六角形の石柱です。天保6年とあります。天保6年は江戸末期、西暦でいうと1836年です。この2年後の天保8年に幕府の与力、大塩平八郎(先生)の乱がおきます。また徳川家康公の再来と言われた徳川慶喜公が第15代将軍になる取りです。

こちらには天保13年とあります。丁度天保の改革1841年-43年)が行われている最中に亡くなった方のお墓です。

墓地内で古いお墓の再配置が進んでいます。北側へ移設しています。こちらのお墓は白札がかかっていないので、子孫の方がしっかり管理されているようです。

左側にある3つ連続で並んでいる石柱は、元関取(お相撲さん)のお墓であると石材業者さんが教えてくれました。

最後に

歴史ある大阪七墓のうち、唯一移転・縮小せず今の場所に姿を残し、かつ現役の状態になっている唯一の墓地を見学させていただく機会をいただき、ラッキーでした。あまり時間がなかったこともあり、一つ一つのお墓に刻まれている方の年代やお名前等を把握することができませんでしたが、次回時間許せるタイミング、かつお墓に入らせていただけるタイミングがあれば、一つ一つまた確認したいと思います。

居酒屋「とよ」で美味しい海鮮料理に舌鼓される際、ぜひこの蒲生墓地のことを気にかけて、当時を振り返るネタの一つになれば幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

文化財の六地蔵様にて締めくくりたいと思います。

参考リンク

大阪市:蒲生墓地の石仏群(10躯) (…>大阪市指定文化財>大阪市指定文化財(指定年度別)) (osaka.lg.jp)

蒲生墓地(京橋)
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