大阪環状線の大阪鉄道時代の遺構橋梁-OBP

大阪環状線の東側部分は、かつて大阪鉄道が1895年(明治28年)に天王寺から梅田(大阪駅の近く)まで開通させたものです。当時は城東線と呼ばれていました。その後に関西を代表するヤンチャな私鉄、「関西鉄道」に大阪鉄道は買収され、関西鉄道が梅田駅を当時の官営鉄道の大阪駅と統合しました。天王寺から玉造、森ノ宮、京橋、桜ノ宮、天満、大阪と抜けるまでの間に大小の川を越えてたわけですが、比較的新しい駅である大阪城公園駅と京橋駅間にある第二寝屋川の橋梁部に当時を忍ばせる遺構、そしてそこにアドオンして今のインフラを付け加えた橋台を認識することができました。

場所

環状線の大阪城公園から京橋に至るまでには第二寝屋川、そして寝屋川を渡る必要がありますが、今回は第二寝屋川に着目した内容ですので、場所はこちらとなります。地図上の★マークのところが今回の記事のロケーションとなります。

京橋から森ノ宮まで環状線が高架になっておらず、平面ぎりぎりですが、徒歩や自転車であれば、この環状線の下をくぐって、OBPのある地域(城見)と鴫野西をつなぐ小さな道があります。Google先生の地図を拡大しますと、環状線の下くぐる緑色の線がありますが、これがその歩道です。

現地の写真

第二寝屋川にかかるこの弁天橋を橋台がポイントです。玉造筋みるには、高架の下をくぐるため、階段をおります。自転車等でもくぐれるようゆるいスロープもあります。これならベビーカーでも通れますね。

ちなみに寝屋川にある今の橋台はおそらく近代のものだと思います。とても太いです。

さぁ、いよいよ大阪鉄道時代の遺構、いやいや今も現役で活躍している橋台です。当初は煉瓦でしたが、その上にコンクリートを盛っています。

橋台の外側は大きな石でがっちりかためている構造です。

JRの下をくぐって鴫野方面から撮影するとこんな感じです。

個人的に寂しく思ったのは、補強のためなのか、虫よけのためなのか、浸食防止を防ぐ目的なのかまではわかりませんが、白いペンキが煉瓦に塗られてしまっていることです。

いたずら描きのようなものではなさそうですし、何らかの目的があって塗られているのですが、せっかくの煉瓦も白くお化粧されてしまってみたいで寂しい思いです。

しかし塗られているのは、歩道に面している部分のみです。ということは腐食防止等の類ではなく、落書きをしないような意図でしょうか、だとしたら白い壁面となった橋台に、「輩」の落書きを促しかねないものかと心配になります。

白ペンキが塗られているのは、煉瓦、そして煉瓦の上にかさ増しするようなコンクリート部に塗られていますが、巨石部の土台には塗られていませんでした。この少し突き出た部分、何やら枕石のようにも見えますね。

OBP側のスロープ側みると、橋台部の下がしっかり煉瓦支えており、その上にコンクリートが覆いかぶさっているようです。各年代で補強や補修を繰り返しつつ、今日もしっかり環状線を走る電車とお客さんを支えています。

最後に

鉄道は明治時代、水運に代わる物流手段として、日本全国多くに敷設された後、その役目を終えて廃線になっている路線もある中で、大阪市内を大動脈として環状線は多くのお客さんを運んでいます。かつてこの地に鉄道を敷設した、周りは田畑ばかりでしたが、100年以上経過した後、今ではなくならならない必需インフラになっており、当時の橋台が今も活躍しているかと思うと嬉しくなります。

私達は日々の移動の中で知らずしらずの中で先人たちが作ってくれた大きな社会インフラをまるで当たり前のように利用させてもらっている今日、歴史が積み重ねを感じざるを得ませんし、まるで駅伝のタスキのように次代へ繋いでいくべきものだと思いました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。この環状線は多くの遺構があり、桜ノ宮までの各種関連遺構についても以下の関連記事にそれぞれまとめていますので、もしお時間許せば見て行ってもらえると嬉しいです。

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大阪環状線、かつては城東線を呼ばれ、当時の「大阪鉄道」が敷設しました。第二寝屋川を渡る弁天橋に当時の遺構の煉瓦残っています。
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