網島駅(あみじま)の15年

関西の環状線、京橋駅と桜ノ宮駅の中間くらいに、網島(あみじま)駅がありました。「綱島駅」と文字だけみると、関東の東急東横線にある綱島駅(つなしま)と間違えそうになりますが、関西にあった綱島駅は1898年に開設され、1913年に廃駅になりました。このブログではかつてあった関西の綱島駅(あみじま)を振り返りつつ、関連情報を整理してみました。

網島駅があった場所

大阪市都島区東野田町にある大阪市立東高校(2021年度より大阪府立に移管されます)と幹線道路を跨ぐような場所に立地していました。左側の地図は1911年(明治44年)に発行された地図がベースになっています。赤い楕円で囲った部分に「あみじま」と縦書きの記述があります。駅の北側に環状線が走っています。

この地図が発行された1911年からわずか2年後に、網島駅は廃駅となってしまいます。そこまでの流れについて整理したいと思います。

埼玉大学提供の「今昔マップ」より

現在の跡地は高校と幹線道路があり、周辺を歩き回りましたが、当時をうかがわせる遺構を発見することはできせんでした。(奥に見えるのはNTT西日本の新社屋の工事中のビルです。2021年2月13日撮影)

ちなみに、大阪市立東高校以前の跡地についてはこちらにまとめています。

沿革

1898年(明治31年)11月18日 – 開設

もともと、浪速鉄道が現在の片町線の一部に当たる片町駅(1997年廃止)- 四条畷駅間を1895年(明治28年)に開業させたが、同社が関西鉄道に合併された後に官営鉄道大阪駅への乗り入れを果たすべく、途中の放出駅から分岐して初代大阪鉄道線(今の大阪環状線東半分)の桜ノ宮駅(1898年(明治31年)開設)に至る路線を計画した。また、浪速鉄道のターミナルであった片町駅は、北側を鯰江川、南側を寝屋川に囲まれた立地であって拡幅の余地がなかったため、新たにターミナル駅を設ける必要もあった。

Wikipediaより

浪速鉄道の起点だった片町駅、大きなターミナル駅にするにあたって狭かったため、より広い拡幅用地、今後の発展を目論んで網島駅を展開したとのことです。片町駅を開設するにあたって、そうした地理条件も考えておけばよかったのでは、と後世の我々はいろいろ指摘することはできますが、用地買収、資金などの開業時にあたって色んな都合があったのでしょう。片町駅と網島駅は直線距離でいうと、400mから500mくらい離れていました。

その後関西鉄道は、網島駅 – 四条畷駅 – 新木津駅(1911年廃止)- 加茂駅 – 名古屋駅間のルートを本線とし、大阪 – 名古屋間における官営鉄道の東海道本線に対抗すべく、急行列車を網島駅発着で走らせ始めました。このとき同駅は、名実ともに関西鉄道のターミナル駅として機能していた。この時点までは大きな期待を持っていた駅といえます。当時の新聞にも大きく報道されていました。東海道線が京都-滋賀-岐阜を経由していたのに対して、奈良-三重を経由する新ルートだったわけです。双方のルートの金額や時間を比較するところまでは調べ切れていませんが、大阪-名古屋間を結ぶ大動脈として大きな期待が寄せられていたのは間違いないかと思います。

起点となっている一番左側の駅が網島駅です。名古屋までの最短経路を結んでいるようです。しかし、状況が変わってしまいます。

しかし1900年(明治33年)、関西鉄道が初代大阪鉄道を合併したことで状況は一変する。関西鉄道では1899年(明治32年)に開通した加茂駅 – 大仏駅(1907年廃止) – 奈良駅間の路線と大阪鉄道が保有していた奈良駅 – 天王寺駅 – 湊町駅(現:JR難波駅)間の路線を結んで、県庁所在地の奈良市を通る加茂 – 奈良 – 天王寺 – 湊町のルートを本線にし、急行列車2往復のうち1往復をこのルートで運行するようにしたため、網島駅の意義が低下してしまったのである。

Wikipediaより

官営鉄道以外で、大阪から名古屋までより早く移動できる鉄道だったのが売りの一つだったのが、さらなる合併により別ルートができてしまい、そちらが本線となってしまい大動脈構想からはずれてしまいます。天王寺駅のほうが周囲の発展度はもとより利便性が良いのは当時からだったでしょう。今でいうと、学研都市線(片町線)経由で名古屋へいくルートと、関西本線(大和路線)経由で名古屋へいくルートがあり、関西鉄道は後者路線をメイン路線へ変更したということですね。名阪路線を繋ぐ路線の中で、加茂駅から奈良市を通り(大仏鉄道経由)、天王寺へいくルートが本線となります。


1901年(明治34年)12月21日 – 網島 – 桜ノ宮間開業

さらに追い打ちをかけるように、1901年(明治34年)には網島駅 – 桜ノ宮駅間の路線が開業し、網島駅は途中駅となります。始発ターミナル駅として、大きな発展を期待されていましたが、途中駅となってしまいます。

大阪駅方面からは網島駅への流入を目論んだものだと思われます。

1907年(明治40年)8月21日:ローカル線化

大仏鉄道地図
幻の鉄道 大仏鉄道(加茂駅~大仏駅~奈良駅) – 木津川市 (kizugawa.lg.jp)より

さらに追い打ちがかかります。

関西鉄道では加茂駅 – 奈良駅間のルートを木津駅経由に変更し、加茂駅 – 新木津駅間を廃止したため、残された木津駅 – 新木津駅 – 網島駅 – 桜ノ宮駅間(木津駅 – 新木津駅間は1898年(明治31年)に開業)と放出駅 – 片町駅間は完全なローカル線と化した。

Wikipediaより

もともとは、加茂からは大仏鉄道と呼ばれるルートがありました。これは名古屋から奈良への観光客を引き込もうと目論んだものですが、新線開通からわずか9年余りで廃線となってしまいます。加茂駅から奈良までを最短距離で結ぶルートは丘陵地を超えるルートであり、当時の蒸気機関での運行コスト(たくさん石炭を焚かなくてはならない)高だった点もあり、より平坦なルートとして新設された木津駅ルートを使うようになりました。

奈良駅から加茂駅への移動に伴い、従来は高コストな大仏鉄道(廃線となる)経由で天王寺方面からの電車は名古屋に向かっていましたが、より平坦な木津駅ルートへの変更に伴い、東海道本線以外で大阪から名古屋へ向かうもう一つのルートの中で、大和路線(関西本線)の優位性がますます高まります。相対的に綱島駅発からの名古屋ルート(この時点ではすでに支線扱いですが)の立ち位置がさらに下がりました。


1907年10月1日 – 国有化

そして追い打ちをかけたのが国有化と現在のJR京橋駅が環状線と片町線にできたことです。

関西鉄道が国有化されて、木津駅 – 片町駅間が片町線・放出駅 – 桜ノ宮駅間が桜ノ宮線となった後、1913年(大正2年)11月15日に片町線と城東線(現大阪環状線)との交点に京橋駅が開設されたため、桜ノ宮線は不要となって廃止され、網島駅も同時に廃止された。

Wikipediaより

これが決定的だったと思います。桜ノ宮駅と京橋駅にはさまれるかたちとなり、さらに京橋駅から片町線へ乗り換えができることにより、駅の価値がさらに下がってしまいました。


1913年11月15日 – 桜ノ宮 – 放出間廃止に伴い廃駅

その後、桜ノ宮駅から網島駅を経て、放出駅に至るルートは環状線と片町線の重複もあってか鉄道路線そのものが廃線となり、その間に唯一どの路線との乗り換えもなかった網島駅はわずか15年の短い駅の役割を終えます。

国有化に伴って、国鉄を使っての関西から名古屋へのルートは北側の大阪駅から京都経由の東海道線、湊町-天王寺から奈良経由の関西本線(大和路線)の2つの大動脈としての確立します。

小ネタ

盛り土用の土を現地調達

網島の近くには淀川の支流、大川が流れており、その名前の通り、島のような土地が湿地エリアに点在していたようです。鉄道建設には向かない土地でしたが、関西鉄道は綱島駅の北側に大きな池を掘り、その土砂を盛土に路線用地盤を固める際の盛り土として使用しました。この池が地図にも描かれており、関西池と呼ばれていたようです。非常に大きな池です。駅の北側はかなり広い池であることが伺えます。

桜ノ宮線
明治44年(1911年)の地図 元データは
京阪電車の旧線を歩く(3)京阪池の跡地編 | 鉄道で行く旅のブログ (ameblo.jp)

参考リンク

大仏線 (tetsuhai.com)

幻の鉄道 大仏鉄道(加茂駅~大仏駅~奈良駅) – 木津川市 (kizugawa.lg.jp)

京阪電車の旧線を歩く(3)京阪池の跡地編 | 鉄道で行く旅のブログ (ameblo.jp)

網島駅(あみじま)駅
最新情報をチェックしよう!