榎並川は都島区・城東区の南側の区境

かつて京街道沿いに、今でいう谷町線の野江内代駅あたりから京橋駅方面まで北から南へ流れる井路川がありました。その名は榎並川。今回は京橋界隈まで流れ込み、その後鯰江川へ合流していた榎並川、その跡地について、古地図をもとに整理していきたいと思います。この榎並川が流れていた場所は、今は大阪市都島区・城東区の、南側の区の境となっています。

場所

大阪城の北側にあり、主要駅は京橋駅(JR環状線・東西線、京阪本線、地下鉄長堀鶴見緑地線)の他、東西線の大阪城北詰駅、区の中央には桜ノ宮駅、谷町線の都島駅、野江内代(のえうちんだい)駅、城東区の区境には2019年3月に開通した、JRのおおさか東線の城北公園駅があります。

北は淀川、西は大川(旧淀川)、南は寝屋川と3方が川に囲まれている区です。区の中央から北側の区境は京阪本線、そしておおさか東線を境にしているのに対して、南側はくねくねしています。

かつての榎並川は埋め立てられ、道路へ

埋め立てられ、今は道路になっています。地図上で比較すると以下の通りです。左側はGoogleマップ上での区界です。右側は、その区界を青線でトレースしたものです。

古地図を振り返る前に、今を生きる我々がなじみある今の道路風景の写真です。この道路をもともと川だと知る前に、中途半端に広い道だったり、変なところで曲がったり、すぐ脇の京街道と隣接するような道路になっていたりと、以前は奇妙に感じていました。

榎並川とは

大阪市城東区のHP上では以下のように説明がされています。

京街道は大坂城京橋口から、鯰江川に架かる野田橋を渡り、今の京阪モールの南側道路から新京橋商店街を北上し、野江・内代・関目・森小路・今市を通って京都にいたる道でした。この道に沿って流れていたのが榎並川です。
野江橋(野江3丁目7番38号付近)の先で、都島区から流れてきた内代井路川を併せ京橋に向かい、蒲生の墓のあたりで鯰江川に合流していました。現在の城東区と都島区の境界になっています。
戦前まで野江橋上流は、水遊びや魚とりのできるきれいな水が流れていましたが、内代井路川は、周辺の大規模な製紙工場や染工場の排水が流れ込み、このため野江橋下流を汚染してしまいました。
榎並川をはじめ、周辺の井路川では三枚板舟が農作物や肥料の運搬に盛んに使われていました。今でも当時の舟板や碇が地元の旧家に保存されています。
この川も昭和30年(1955年)代後半に埋められ道路になりましたが、その名残としてシティバスの停留所に「蒲生桜小橋」の名前が残っています。

大阪市城東区HPより

京橋界隈、都島区、旭区、城東区、大坂城から東のエリアはかつて、多くの井路川があり、水運や地域の潤いに寄与していたようです。戦後の更なる都市化、工場が多くたつなかで、当時は廃水規制も乏しく、下水道も満足に整備されていなかったことから、生活排水や工業廃水が井路川へ多く流れ込むことで、水量のキャパを超えてしまい、結果的に汚染されてしまったようです。水運としても使われなくなり、南側の鯰江川よりも20年近くも早く埋め立てられてしまったようです。

明治期の低湿地地図と現代地図との比較

左側は明治期の低湿地地図で、右側は国土地理院が提供する現代地図です。低湿地地図の中央に南北の榎並川とおぼしき川を確認することができます。

左下にあるのは、城東線(大阪環状線)の架道橋名から判明した、「筋遺井路川」も確認できます。筋遺井路川を裏付けた遺構については、こちらにまとめています。

1911年(明治44年)時の古地図

左側の地図は、管理人が榎並川(青線部)と、京街道(茶線部)を描き入れ、右側がオリジナルの地図です。白黒地図での判別は困難ですが、前回の井路川調査時の調べた際の、地図表記や明治時代の低湿地地図をもとに、わかりやすいように描いてみました。

榎並川と京街道が隣り合わせのようなエリアもあります。1911年と現代地図との比較が以下です。右側の現代地図と比較すると、榎並川と京街道と接している部分の道路幅が急に広くなっていることがわかります。

1936年(昭和11年)時の航空写真

さぁ、いよいよ航空写真ベースでの比較です。航空写真では白黒ではありますが、榎並川の橋なども確認できます。航空写真の場合、かなり拡大しないとわからないので、まずは南側の鯰江川との合流地点の拡大を現代図と比較してみました。

左側の航空写真部のみを拡大してみました。場所によっては川の両側に道路があるようにも見えますし、榎並川への橋も確認できます。

京橋駅北側にある東西に走る国道1号線が見えるくらいの広域とし、左側がオリジナル航空写真、右側が同写真に道路や鉄道、榎並川などがわかりやすいよう、色線で書き入れてみました。左側のオリジナル地図では、榎並川に浮かぶ舟を確認することができます。5隻くらいでしょうか。

もう少し地図を北側へずらします。京街道と榎並川がだんだん近くなります。地図中央部に、広場のような場所もあります。その後、京街道と榎並川が隣接するようになります。

現代地図との比較です。隣接している部分の道路が、広いのも京街道+榎並川の幅の部分であり、榎並川単体部はだったエリアが細いことがわかります。

1945年~50年(昭和20年-25年)時の航空写真

終戦間際もしくは戦後に撮られた航空写真です。空襲で燃えてしまってかつてあった家屋が確認ができない場所もありますが、榎並川を確認できます。

1961年~64年(昭和36年-39年)時の航空写真

広域で比較してみました。この時代であっても、榎並川がある部分には橋がかかっており、まだ川として存続しているかのように見えます。

脱線ネタですが、左側地図の右側に城東貨物線の淀川貨物駅のデルタ状になっている引き込み線、京橋駅から淀川貨物駅に伸びる貨物用線路も確認できますね。

1974年~78年(昭和49年~昭和53年)時の航空写真

すでにこのころは榎並川は埋め立てられており、道路であることを確認できます。

1936年以降から航空写真ベースで追いかけてみました。地図ベースでも確認したのですが、地図ですと、川だと確認するのが非常に困難であり、掲載を断念しました。

隣接する大阪市城東区のHPでは、”昭和30年(1955年)代後半”ごろに埋め立てられたと書いてありましす。航空写真を見る限りでは、少なくても1961年~1964年(昭和36~39年)時の航空写真では確認できています。ただし、大阪市のこの場所の航空写真が1961年時のものなのか、1964年時のものなのかは確認できませんでした。もし、1961年時の写真で、それ以降埋め立てられた可能性があるでしょう。

現地写真

かつて榎並川が流れており、今は道路となっています。現代の写真から当時の状況を振り返ってみたいと思います。国道1号線から北上していきます。なかなか静止画ベースでは伝えにくいですが、埋め立てられた榎並川が、ある場所で広く(かつての川と道路が一体型になったため)、ある場所では緩やかな曲線上になっていたりとします。途中で京街道と合流してから道路が一層広くなります。かつては京街道脇に綺麗な川が流れていたかと思うと、当時に戻れるならば、一度歩いてみたいものですね。

①、国道1号線「桜小橋」交差点から北側

交差点前は広くなっており、また若干交差点に向けて隆起しているかのような状態です。広い状態といえます。

②、京街道に寄りはじめ。緩やかな蛇行。北側を撮影

平野部を流れていたのか、ゆるーい流れの曲線です。

③、 ファミリーマートコンビニの角地から京橋側を撮影

道路となり、運転手側の視点に返ると、「なぜこんなにクネクネと」という気持ちにあります。これが徒歩の感覚だでは緩やかなカーブであっても自動車となると、まっすぐにして欲しい!という気持ちになるかと思います。

④、京街道へ合流するためにさらに曲がります

このあたりからh、西向きへ曲がっていきます。すぐ脇に京街道があります。そして、この後まるで京街道と榎並川が合流しているかのような道筋になります。

⑤京街道からの合流部を北から南へ撮影

この中途半端な道はなんだ、初めてみると誰もが思ってしまいそうです。このあたりで合流します。写真の右側が京街道、左側がかつての榎並川です。

⑥、榎並川と京街道を併せた道筋へ

ここより以北しばらく榎並川と京街道が並走区間の双方を道路になっているため、歩道含めた道路が非常に広い幅となっています。どうせなら、かつての京街道がわかりやすいよう残して欲しかったと思うところです。そう思うくらいの左右の歩道、道路が余りある幅です。

⑦、両側の歩道、車道含めて圧倒的に広い京街道・榎並川並走地区

歩道、車道含めて、それまでの道が同じものとは思えない広さです。

⑧、京街道・榎並川分岐部

道がY字にわかれます。どちらも一方通行ですが、一気に道が細くなります。右側が京街道、左側が榎並川となります。

この右側にいく方向に「野江橋」という橋が榎並川にかかっていました。

桜小橋とは

国道1号線と榎並川を交差していた部分です。今は「桜小橋」という名前の交差点になっています。今はすでに橋はなく、名前だけ残っているにすぎませんが、かつての榎並川に対して、おそらく「桜小橋」という橋がかけられたいったのでしょう。

もはや地域の地名にもありませんが、交差点近くには近くにある親水公園(かつての榎並川のイメージを少しでも残そうとしたのでしょうか)と、大阪市営バスのバス停名に、桜小橋の名前を確認することができます。

実はJR環状線の京橋駅東側には、小さな飲み屋小径があり、そこの名前にもこの桜が使われています。飲み通りの名前は、「さくら通り」です。この通りの中に小さな飲み屋街があり、そこは「小桜横丁」といいます。通り内には看板と飲み屋街を確認できます。

この界隈は、小さなお店がたくさんありますが、道がとても細く、迷いそうになります。そんな商店街、横丁に、桜と名前がつくのは榎並川沿いの桜小橋の名残からでしょうか。川の堤防にはきっと桜が植えられていたのでしょうか。そんな連想をさせてくれます。

照明に照らされた、横丁のお店の看板。個々の焼き鳥屋さんの脇をいくところが、「小桜横丁」です。

榎並川を振り返ってみて

「そこの通り、昔は川だったんですよ」と、京橋~野江界隈にて数十年イカ焼きをしているご主人が教えてくれたことがきっかけでした。

なぜ、こんなクネクネしている道なのだろうか、平行に沿う道路とあまりにも近く、バイパスと呼ぶにはお粗末すぎる、と当初思っていた道路が、もともと川でした。そして大阪市都島区と城東区の区界になっていることに気が付きました。知っている方からすれば、「何をいまさら」ということかもしれませんが、過去の航空写真からも地図からリアルに流れていた川を認識でき(当時に航空写真には舟も写っている)、その経緯を整理できたのは楽しいものです。

榎並川については、後編を予定しています。この榎並川はもともと、どこから水を引いていたのか、という観点で、これもまた古地図と現在の統治の写真をベースに整理したいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

戦前の航空写真、古地図含めて調べることも楽しみの一つです。かつては舟で行き交い、小魚や貝もいたのかもしれません。子供達が魚をとるために、色んな取り組みをしていたことが容易に想像つきます。時代は違えど、私も幼少のころは、釣り以外の方法でもいろいろ魚を追いかけていました。

かつて、大大阪(だいおおさか)と呼ばれた大阪市都島区の大きな主要駅である京橋駅界隈でも、昔は井路川で魚をおいかける子供達がきっといたことでしょう。今、そうしたことができる川は貴重な存在です。かつては当たり前だった川が今では貴重な川です。時代の変化とともに、当たり前のものが変わっていくことはまた面白いものです。それは決して目につきやすい技術的なものばかりではなく、私たちの生活身近なものであるケースが多いですね。

関連ページ

榎並川の上流部については、こちらとなります。


参考・出典情報より

大阪市城東区:榎並川 (…>区のプロフィール>城東区を流れる川) (osaka.lg.jp)

大阪市都市計画事業橋梁・桜小橋(第一次都市計画事業・新築) (kyudou.org)

京街道を歩く (han53.net)

京橋京街道沿いの榎並川
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