榎並川と都島本通手前にあった京街道の野江橋

今の都島区と城東区を区の境となっているのは、かつて榎並川が流れていた部分であり、今は道路となっています。京橋界隈の鯰江川から北上し、都島本通から北西方面へ続いていました。城東区野江三丁目界隈にはこの榎並川を跨ぐ橋があったようでして、それに関する文献や史跡を探してきましたが、この度それらに関する文章と遺構の一部を確認できましたので、わかる範囲内と想像も交えて記事としています。具体的には古地図からの野江橋の場所の特定と、今も残る野江橋の親柱です。

過去の参考記事を2件紹介します。今回紹介する野江橋から京橋方面・鯰江川にいたるまでの記事はこちらです。

一方、都島北通界隈を斜めに走る榎並川に関する記事はこちらです。

かつての野江橋があったと思われる場所

大阪市城東区のHPでは榎並川を以下のように紹介しています。

京街道は大坂城京橋口から、鯰江川に架かる野田橋を渡り、今の京阪モールの南側道路から新京橋商店街を北上し、野江・内代・関目・森小路・今市を通って京都にいたる道でした。この道に沿って流れていたのが榎並川です。
野江橋(野江3丁目7番38号付近)の先で、都島区から流れてきた内代井路川を併せ京橋に向かい、蒲生の墓のあたりで鯰江川に合流していました。現在の城東区と都島区の境界になっています。
戦前まで野江橋上流は、水遊びや魚とりのできるきれいな水が流れていましたが、内代井路川は、周辺の大規模な製紙工場や染工場の排水が流れ込み、このため野江橋下流を汚染してしまいました。

大阪市城東区HPより

よって、もし城東区野江3丁目7番38号付近でいいますと、このあたりでしょうか。Google mapで住所打ち込みますと、この界隈がハイライトされます。

左上(北西方面)に線のように続く道はかつての榎並川、今は児童遊園になっているところです。下側に伸びるやや太めの道がかつての京街道と榎並川が並行していたエリアです。さらに絞り込んでいきます。

偶然だと思いますが、地図を拡大していたら、「野江橋不動産」という建物がヒットしました。「野江不動産」でも良いものを、あえて「野江橋」と橋を加えているのはまさにこの界隈だと思います。Google先生の地図ですと、住所は野江3丁目6-7と表記されます。

その野江橋不動産から一つ北の建屋の住所が、野江3丁目7-35ということでほぼほぼこの界隈だと思います。

文献から探る

大阪市中央図書館へいった際に、まさにこの地域の歴史のことを整理した本を借りてきました。かなり痛んでいる本ですが、榎並・野江のことが非常に細かく記述されています。

「榎並と野江 ー近郊農村から都市への発展ー」

その81ページの「井路と道路」の節で、当時の井戸(水路)、鉄道、道路、池などの地図を確認することができました。野江橋の場所と地図がある部分がわかりやすいよう、赤矢印は私が書き入れましたが、おおよそ先ほどの住所のエリアと同じあたりです。右側の地図は昔の京阪路線を確認できます。

この書籍では私がこれまで「榎並川」として紹介してきた川は、「九ヶ井路」という名前になっています。それから野江国道商店街界隈に流れていた北東方面への井戸は「内代井路」という名前になっています。

それから本項とは関係ないネタですが、左側の地図には、「六段池」という長方形に近い池があります。別の書籍では、「六反池」とも表現されていたりしますが、この野江の地名を日本全国に知らしめた猟奇的な事件があった現場でもありますが、その話はまたどこかで。。。

古地図から探る

一番これが現実で、もったいぶってしまったような流れで申し訳ありません。私なりに調べてきた経緯を整理して、それらを確定づける情報として地図を最後にもってきました。榎並川を青色線で、野江橋を赤枠としています。

1907年(明治41年)時の古地図

代表的な地域以外はまだまだ農村地域です。野江橋は京街道の橋の一つだったことが推察できます。

1936年(昭和11年)時の航空写真

京阪本線の東側にまだ田畑が残っているものの、榎並川界隈は多くの建屋で密集状態です。

赤枠部を拡大してみると、野江橋を確認できます。

現代航空写真と対比しながら、榎並川を水色で着色してみました。都島通の下は暗渠化し、水路は北西へ続いていますが、野江橋があるところがはっきりわかります。

今の地図にプロットすると、こんな感じでしょうか。

以前の記事でも紹介した下の写真で、左側が榎並川、そして右側が野江橋を通じて京街道が続き、関目へ向かっていた道でしょう。

野江橋の親柱

この野江橋にかかっていた橋の親柱を最寄りにある榎並小学校の敷地内にて確認できました。敷地内とといっても小学校の東側の道路からも確認できます。

親柱らしきものが3つあります。大きな親柱2つ、一番右側が小さなものですが、これも何かの親柱でしょうか。一番右の小さなものは、別の角度から見ると、「榎並」とだけ刻まれています。

大きな親柱を別の角度から見るとこんな感じで、はっきりと野江橋の記述があります。かなり大きなものであり、右側の親柱の上には何か真鍮か何かの細工もあります。かつてはガス灯で周囲も含めた照明になっていたのでしょうか?。

この親柱がいつのものなのか、写真撮影時には意識しておらず、その後の写真にて解析を試みるも私の技術力では「大正十五年?」(1925年前後)だと判断するのが精一杯でした。

野江橋の親柱の上の真鍮のようなもの、私はこれはかつて照明か何かつけられていたものだと推察しています。下は大阪市中央区の東堀川にかかる今もまだある久宝寺橋のそれです。(再現されていますが)

もし照明だったとしたら、ガス灯だった可能性が高いような気がします。場所は全然異なりますが、大阪はミナミに心斎橋という著名な商店街・盛り場がありますが、そこに架けられていたかつての橋もガス灯がついていました。心斎橋のそれは支柱も含めて良いデザインです。

榎並小学校にある野江橋の親柱の金具部では今はさびてしまっていますが、明治の文明開化に伴って日本にガス灯が入ってきた際に、主要幹線道路の一つであった京街道にかかる橋の改築の際に、つけるよう自治体に要請したか、あるいは地域有志の方がお金を募ったのかもしれませんね。

親柱は榎並小学校の東側にあります。地図に★マークをつけました。

その近くの門には、かつてこの地に榎並城があったことを示す碑や、能や狂言のルーツである、「猿楽」発祥の地であることを示す碑もあり、この地が色んな歴史の側面があることを示しています。

最後に

榎並川は途中で京街道と並走するような場所があります。野江橋は榎並川にかかっていたその他の橋よりも野江村の目と鼻の先にあるため、人の往来も多かったと思いますし、大阪から京都間への陸路での往来においても多くの方が利用されたことでしょう。

野江橋があった場所は、かつての水路があったことがわかるゆるやかなカーブとかつての京街道と道、橋だった遺構は最寄りの小学校に親柱だけが残り、当時を振り返ることができますが、もしガス灯をかざすようなくらいの立派な橋であれば、何か説明版のようなものも欲しいと思いました。親柱も非常に大きく、さぞかし立派な橋だったと思います。

城東区・都島区、いわゆるかつての榎並壮には多くの川・水路、かつての名前でいうと井路が流れていたことから、水路や橋に関する遺構探しを引き続きやっていこうと思います。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

参考文献

大阪市中央図書館で借りた本です。城東区の図書館にありませんでしたが、とても参考になりました。今から40年近く前に出版された本です。

・榎並と野江の歴史 ー近郊農村から都市への発展ー

・城東区50年の歴史

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埋め立てられた川や堀│Kinoko Blog

京街道にかかっていた榎並川を跨ぐ橋、野江橋。最寄りの榎並小学校に親柱があります。
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