今も活きる大阪天満の赤レンガ建屋群

大阪環状線外回り、大阪駅から京橋方面に向かう際、最初の駅は天満駅となります。天満駅を出発すると大川(旧淀川)を渡って、桜ノ宮駅そして京橋駅へとつながるわけですが、天満駅を出て桜ノ宮駅へいくまでの大川を渡る前の左側(方角でいうと北側)に赤レンガの建屋群を何棟も確認できます。こちらの建屋について整理してみました。

結論:かつての天満紡績工場時の建屋

煉瓦造りの建屋は非常に多く残っています。環状線や建屋の最寄りの道路からすぐ確認できる建屋と、徒歩でないと確認しにくい煉瓦建屋の2種類があります。

南側の道路から見れる煉瓦棟及び建屋

道路沿い、環状線から見れるレンガ建屋は壮観です。3棟並んでおり、近くで煉瓦の細部のデザインまで見るとまた違う発見があります。

南側(環状線沿いに連なる建屋)

1887年(明治20年)創業の天満紡績、翌年以降この大阪市北区のこの界隈の土地に工場をどんどん拡張していきました。

環状線からは、道路沿いにある3棟のレンガ建屋を確認できます。これら建屋は今も現役で使われているということで素晴らしいと思います。

入り口脇からの撮影です。ここは今でも現役の工場でして、許可なく勝手に敷地内中に入ることはできません。調べたところによると、1886年ごろにこれらは建築されました。設計は東京駅をはじめ、各地になだたる建築を手がけたあの有名な辰野金吾先生である可能性もあるとのことです。(これについては確証ある内容をつかむことができませんでした。)或いはそのお弟子さん、辰野先生のもとで勉強された方の設計かもしれません。

工場の正門からやや東側のこちらの建屋、こちらは煉瓦づくりではありませんが、和洋折衷の設計がされているとのことです。かつての天満紡績の事務所棟だったらしく、1階の壁面はコンクリートブロック積み、2階はモザイクタイル貼り仕上げ、屋根は木造の日本家屋のようなつくりでです。別の表現をしますと、1 階が石造風、2 階はタイル張り、屋根が寄棟造桟瓦葺という和風づくり、まさに和洋折衷です。

昭和初期に現在の外観になったようです。

東側の歩道から見れるレンガ棟

東側の工場棟の壁面煉瓦

実は、環状線や工場の正門の道路以外からも煉瓦棟のある建屋を確認することができます。ここは車では入れませんし、地元の方々の生活歩道のような場所です。ただ、ここからは連なる建屋として、工場のレンガ壁を確認でき、アーチ状になっている煉瓦部、柱なども確認できます。

私が訪れたときは敷地の壁を工事中だったのか、簡易な壁がありますが、連なる工場棟のレンガの壁続きを確認できます。

幸運なことに、私が訪問した2022年6月ごろは工場の北東側の建屋を解体中だったため、そこがすっぽりと空き地のようになっており、東側の天満橋筋の道路からも確認することができました。

場所

場所は大阪環状線の天満駅の西側、今は大阪都市高速が走り、かつては天満堀川が流れていた道路からさらに西側の広大な敷地となります。

住所:〒530-0042 大阪府大阪市北区天満橋3丁目3−5

東洋のマンチェスター、日本のマンチェスター

引用:大阪府 報道発表資料

江戸時代、大阪は商人の町、そして西国大名の蔵が多く建ち並び、当時の国内の各種物資における最大の集積地であり、商いの中心地でした。堂島にある米市場をはじめ、各種市場が活発でした。日本三大商人の一つの大阪商人も含めてとかく商売が盛んな地域でした。

ところが、江戸時代が終わり、明治時代となり、商売で栄えた大阪は一転し、近代国家として成長するにあたって、工業都市へと変遷していきます。大川沿いには造幣局が明治初頭にすぐ建設され、それに必要な各種化学工場も周辺にできましたが、とりわけ大阪地域で多くの工場があった業種の中に繊維産業があります。

先駆的な工場としてその先駆けとなったのは鹿児島県でしたが、その後は官営主体で、政府がイギリスのマンチェスターから繊維産業における近代機械を購入・輸入し、官営工場を立ち上げ、その後民間に払い下げする、といった流れもありました。この地において民間主体で多くの工場展開にあたって、新一万円札のあの人の活躍がありました。

渋沢栄一氏により大阪は日本で最初に蒸気機関の機械を紡績工場へ導入

Wikipedia commonより

1882年(明治15年)に渋沢栄一らにより、大阪に近代的設備を備えた大阪紡績会社(現・東洋紡)が設立されました。これがトリガーとなり、産業人が多く刺激され、1886年(明治19年)から1892年(明治25)にかけて、三重紡績、天満紡績(いずれも現・東洋紡)、鐘淵紡績(旧・鐘紡)、倉敷紡績、摂津紡績、尼崎紡績(いずれも現・ユニチカ)など20に及ぶ紡績会社が次々と設立されました。大阪は多くの川や運河が当初から多いため、水運に恵まれた地域でもあり、まだ陸運よりかは水運主体のこの時代、工場は川沿いに多く建設されていきます。大阪城の東側の広大な土地を工場用地として確保した、鐘淵紡績は近代時においても運河を開削するほとでした。

近代機械で稼動する多くの工場が広大な敷地をもってフル回転しはじめた大阪は「東洋のマンチェスター」とよばれるようになり、その後、日本は世界最大の紡績大国に成長していきます。

天満紡績概要とその後

天満紡績は1887年(明治20年)に創業し、積極的な投資により、創業から2,3年内で第一工場、第二工場と立ち上げ、国内屈指の紡績会社にまで成長しました。しかしその後、日本国内の紡績業では最初といわれる労働争議を起こし、その後創業から13年後の1900年(明治33年)に大阪合同紡績と合併しました。

その後、太平洋戦争開始時の1941年には操業を停止し、終戦間際の空襲では工場や周辺建屋も被害を受けたそうです。

古地図からの振り返り

幕末の個別の先進的な藩ではなく、日本が国家ぐるみで大きく近代化への舵をきっていた明治以降からこの場所の地図をおいかけてみたいと思います。

1908年(明治41年)時の地図

左側地図に赤線書き入れしています。

左側が1908年時の古地図で、右側が現在の国土地理院地図です。環状線の天満駅(「まんて」 と右側から記述になっています)の東側に天満堀川を越えて、その西側に工場があります。右から読みで、「社會物織」との記載を確認できます。またその左斜め北(北西部)には、これまた右からの読みで、「社會織紡」との記載も確認できます。この頃はまだ繊維・織物・紡績関連の工場だったことが伺えます。

西に天満堀川、東に大川があり、物資搬入・搬出には便利な位置ですね。天満堀川についてはこちらを参照ください。

1929年(昭和4年)時の地図

かつて、「社會物織」と記載はなく、単純に工場マーク(太陽のような)だけがあります。北西部には、「社會銅伸」、「社會織紡」などの記載があり、伸銅会社というのはなんだか、金属会社のようですね。

1936年(昭和11年)の航空写真

左が戦前の航空写真です。右が現在の航空写真です。今でも残る煉瓦つくりの建屋、そして和洋折衷の建屋を確認できます。拡大して並べてみました。左側(西側)の3棟続く煉瓦建屋は今も残っており、右側(東側)の工場建屋部分もかなり現在の建屋とも似ています。

戦後の1945年~1950年(昭和20年-25年)時の航空写真

戦後に撮影された航空写真です。大阪市内は大規模空襲8回、小規模も含めれば50回以上の空襲にあい、投下されたのは主に木造家屋や建屋が多かったため、それらを効率よく焼失させるために焼夷弾が多く使われていました。天満紡績のあった界隈もかなり戦前の航空写真と比較しても焼けてしまった地域を確認できますし、工場内・或いは周辺も被害を受けたよにも思えます。ただ木造建屋と比べてコンクリートや煉瓦の建屋は全焼を免れたかのように見えます。

或いは周囲に天満堀川や大川があり、関係者の方々の懸命な消火活動により火災による焼失を免れたのかもしれません。

大阪城最寄りにあった軍需工場を標的にし、焼夷弾ではなく、1トン爆弾を積んだB29に関する記事はこちらに整理しています。

1961年~1964年(昭和36年-39年)時の航空写真

東京オリンピックを控え、「もはや戦後ではない」というほど復興著しく、多くの建屋がたっています。

1967年(昭和42年)時の地図

依然多くの工場マークを確認できます。天満堀川もこの頃はまだ健在だったことが橋がかかっていることからもそれが把握できます。

1978年(昭和53年)時の地図

周辺の工場が少なってきています。また天満堀川が埋め立てられ、今と同じ阪神高速がかかっていることがこのころから確認できます。

1984年~86年(昭和59年~昭和61年)時の航空写真

このころになると工場周辺の社会インフラは今と比べて変化ありませんが、川沿いの工場らしき建屋は一新され、現代では多くの高層住宅街になっています。現在の工場立地時周りも多くの高層住宅街がたっていることが伺えます。

Google earthより:南側にある3棟

Google Earthでみてみると、大阪市北区の都心部内にあって、周囲の多くは中・高層の住宅がある中で、この地に過去からバトンタッチをうけて歴史ある煉瓦工場の建屋群を有しているのはとても素晴らしいと思います。経営の許す限り、なんとかこのまま次の時代含めて残していってもらいたいと思っています。

Google earthより:東側から確認できる工場建屋群の壁

冒頭でも紹介しましたが、工場建屋群が連なっているわけですが、その東側にある生活歩道、もしくは天満橋筋から連なる工場建屋群の東側の素晴らしい煉瓦壁を確認できます。

現在の建屋主:中西金属工業株式会社様

NKC社様のHPより

当初は紡績会社の天満紡績でしたが、その後天満紡績や大阪合同紡績(その後の東洋紡)に合併されましたが、建屋や敷地は売却されたのか、現在は、中西金属工業株式会社さんのもとで今も使われています。

中西金属工業株式会社様の概要

NKC社様のHPより

HPを参照し、こちらの会社さんについて調べてみました。

1924年(大正13年)中西製作所の社名で創業しています。もともとあった天満紡績が1887年(明治20年)から天満紡績から数えた37年後の創業になるでしょうか。

その後会社は大きくなり、今では国内に7つの工場(大阪府大阪市北区、大阪府寝屋川市に2工場、三重県名張市、三重県津市、滋賀県湖南市、兵庫県神戸市西区)、国内に5拠点(東京、愛知、神奈川、静岡、九州)、海外は北米・中南米に5拠点、アジア・オセアニアに10拠点、欧州に4拠点をもつ、一大企業です。

グループ全体で約4300名の従業員を擁し、事業内容はベアリング・リテーナー・コンベア及び自動制御装置・サッシ用戸車・住宅関連製品・ゴムシール・精密金型・無人搬送車(AGV)・各種金属プレス加工品・各種樹脂射出成形品・冷間圧延鋼板などの製造販売他、多岐に渡っています。

最後に

以前、環状線外回りで大阪駅から京橋駅へ移動する際、電車から見下ろすような視点で大都市内に埋もれる煉瓦建屋群を発見し、自転車で近くまでいって最寄りでジロジロ見て、周囲からはかなり怪しい人物に思われたかもしれません。周囲には中・高層の集合住宅地が多いなか、かつては大阪が東洋のマンチェスターだと言われた工場群の中で、今でもこの地で煉瓦棟を工場や事務所として活用されているのはとても嬉しく思いました。

時代の波に呑まれて、工場も郊外もしくは海外へ移転してしまい、跡地には無味無乾燥な都会的な集合住宅になることなく、この地で継続して本社・工場として操業されている中西金属工業様には今後も頑張ってもらいたいです。

実は工場内にある社員食堂は、夜間になるとフードデリバリー店として出店されています。フードデリバリーの配達員さんは合法的に敷地内に入れるようですが、入るまでにはしっかり守衛さんで受付してから、広い構内を移動して、食堂までお客様が注文された料理を取りに行く必要があります。

もしその脇にある煉瓦建屋群を間近で見ることができた際は、その歴史をより深く感じることができるでしょう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考ページ

大阪が”商都”と呼べる理由とは――何もないのに生き残る都市 | 大阪の未来構想 (osaka-to-the-world.com)

日本の紡績業の発達~開国以降 | 双日歴史館 (sojitz.com)

レファレンス協同データベース事業 活用法 (ndl.go.jp) 旧天満紡績の工場だったレンガ造りの建物に関する質問より

天満紡績 – Wikipedia

中西金属工業株式会社(NKC) (nkc-j.co.jp)

大阪天満の紡績工場跡の煉瓦
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