都島区の細長い公園・遊園

大阪市都島区の地下鉄谷町線 野江内代駅(のえうちんだいえき)最寄りの都島通を起点に、南東から北西に向けて非常に細長い公園があります。公園といえば大小様々ですが、この公園付近は格子状の道路がある中で、それを無視するかのように、ひたすら斜めに連続しています。その距離は約800m。公園名は内代児童遊園からはじまり、榎並川第1公園まで連なっており、途中道路で何度も分断されますが、道路を挟んで合計9つの細長い遊園があり、その一つ一つの遊園を整理してみました。

大川(旧淀川)から取水した榎並川だった

公園名から感づくと思いますが、ここはもともと榎並川という井路川(いじがわ)が流れていた場所でした。川といっても水路・運河といったほうが良いでしょうか。近隣水運に寄与していました。三枚板舟が農作物や肥料の運搬に盛んに使われていました。しかし近隣工場からの排水、各種下水等で汚染が進み1970年代前後に埋め立てられました。

大阪市城東区HPより

この榎並川は京橋駅方面まで繋がっており、鯰江川へ注ぎ込んていました。ある意味、以前記述した榎並川に関するブログの後編といえるものです。

前編といえるページについては以下を参照ください。

対象となる公園

都島通から北西に向かってベルパークの方角、大川のほうへほぼまっすぐ伸びています。Googleマップ上でも細い緑色の線があります。下の地図はその周りを緑枠で囲ったものです。緑枠の真ん中を今回対象にしています。

おおまかな距離

南東起点とし、北西を終点としてGoogle先生で徒歩検索した際には、距離800m 10分の道のりです。

古地図との比較

1911年(明治44年)地図

毎度お馴染み、国土地理院の明治44年の地図と最新地図をレイヤー表示させたものが以下の図です。緑色枠部が現在公園となっている区間ですが、井路川がその先もずっと伸びていて大川(旧淀川)まで繋がっていることが読み取れます。この榎並川に限らず、このあたりは多くの井路川があったことがわかります。

地図中央のやや右側にある南から北東へ伸びている道らしきものが京街道です。榎並川に関する前プログでも途中並走している区間があることがわかります。

明治44年の地図と現代地図とを分離させてたのが以下の図です。左側、国土地理院の対象部では、細い白い帯のようなものが右下から左上で伸びていることが確認できます。一方、古地図では白黒二色の地図ですが、建屋がある内代界隈や京街道を確認でき、同様に右下から左上へ川があることがわかります。

1936年(昭和11年)時の航空写真

住宅地が格子状にのように建ち並ぶ中で、目立つように斜めに井路川の榎並川を地図内でも確認できました。地図下部には東西への都島通を確認できます。このころからかなり広い道路だったこともわかります。しかし自動車は数えるほどしか確認できません。まだこのころは自動車はわずかでしたからね。

都島通周りの榎並川を拡大してみました。

大小の橋を確認できます。中には本当に板切れのような生活橋のようなものもありますね。

もう1枚。舟が一艘くらい写っているのを期待したのですが、残念ながら確認できませんでした。農業エリアから住宅地区、周りには工場もあったことから、小さな水運への依存率は下がっていたのかもしれません。

1945年(昭和20年)-50年(昭和25年)の航空写真

空襲により建物の多くが焼けてしまっています。皮肉にも目立つのは道路や河川と幸いにして空襲を免れた地域(右下の野江エリア)くらいです。

太平洋戦争時に日本は113もの都市で空襲を受けました。サイパン島を1944年7月に占領されてから、多くの都市がB29の爆撃可能範囲に入り、大阪は1944年から数えて50回を超える空襲を受け、特に状況がさらに苦しくなった945年にはB29が100機以上(硫黄島が占領されてからは随伴する護衛戦闘機が加わります。)の「大空襲」は8回を数えました。

もちろん中には軍需工場や軍需施設を狙った爆撃もあります。

米軍側の呼称では戦略爆撃ですが、実際には一般人の家屋、財産そして人命含めて多く奪い、日本側からすると無差別爆撃と思わざるを得ません。各種生産活動をしている非戦闘員の家屋や人命を奪うのは、敵国の戦争継続を断念させるためには非常に合理的な方法の一つであると思います。戦争を早く終えることができれば、それだけ自軍の損失(物質、人命)を少なくすることに繋がります。

多くの地域が焦土となり、灰燼に帰しました。焼失してしまい取り返せない歴史的な遺産、財産、人命が失われ、本当に残念な事です。

戦争により仕事、財産、そして家族・友人ら大切な人たちを失うリスクがない平和な時代に生きていることに関しては、戦後復興を成し遂げ、今日の発展に貢献してくださってきた祖父母や両親の世代の皆さんには感謝しかありません。平和の大切さを改めて認識します。

当地の写真

途中、道路で何度も分断されますが、都島通から北西へ向けて歩いてみました。

1、内代児童遊園

入り口には、門と塀があります。ただ自動向け遊園ということなのか、1mくらいの高さでして、目線が子供向けに配慮されているのだと思います。

遊園入り口脇と奥にも桜があります。2021年3月末の時期には8分咲きといったところで気持ち良いです。幼児・児童向けの遊具もしっかりあります。

2、内代児童小遊園

先ほどと違って格子状道路の角地を抜ける本当に小さいな遊園ですので、「小遊園」と門には記述されています。それでも遊具は2種類あり、ベンチや桜もあります。よく整備されています。

3、都島北通2丁目東児童遊園

3つ目の遊園です。こちらの門には名前がありませんでしたが、地図上には都島北通2丁目東自動遊園とあります。ほどよく長く、また多様なお花が園内にあります。園内灯もあります。

この遊園を抜けると、わずかばかりの空き地が見えます。そこには自動車が駐車されており、その向こうにはまた遊園が見えます。

4、都島北通2丁目西児童遊園

ここの遊園もまた遊具が多様です。東公園に続き、やや長めの遊園です。ワンパターンな遊具ばかりではないのが素晴らしいです。また公園管理者、もしくは近隣住民の方かわかりませんが、園内にはお花や植物も多いです。私が訪れた際、ゴミ一つ落ちておらず、足元は明るい色目の砂で、硬すぎず柔らかすぎず歩きやすい遊園でした。

5、榎並川第3児童遊園(ミニ版)

連なる遊園の中ではおそらくかなり小さな部類です。しかし児童遊園として、幼児くらいのお子様が楽しめるミニ滑り台、3種類の高さの鉄棒があります。遊園の榎並川第3児童遊園と公園入口の看板に書いてありましたが、この次の遊園も同名称なので、こちらをミニ版として本ブログでは分類しました。

6、榎並川第3児童遊園

こちらの公園も入り口に桜、小脇にはパンジーが植えられています。遊園内には幼児用と児童用と高さが異なる滑り台があり、奥には鉄棒、それからゆるい円弧上の雲梯のようなものあります。

私も幼少のころよく遊びました。手につかまるとうよりかは、この上を座りながら、もしくは立ちながら移動するのがスリルあって楽しかったです。それをいかに短い時間でやるか、等々。遊具は一つの遊び方ではないと思うので、いかに楽しむか、という観点で多様な遊び方がありますよね。

ただ、痛ましい事故が起きると、過去遊んだことのある公園遊具が撤去されてしまい、今ではめったに見る機会が減ってしまい、無難な遊具ばかりになったような気がします。

スリルある遊具のほうが、色んな遊び用途があるかと思います。ただ、現代の観点で危険な遊びをされてしまう遊戯はやはり撤去の方向にならざるを得ないでしょうね。

この遊園を抜けると、延長上にはまた微妙に狭い角地になるのですが、この地区に関していうと、まるで榎並川の真上に家がたっているかのように、道路以外でいったん遊園の連続が途切れます。しかし、遊園はまだまだ続きます。

7、榎並川第2児童遊園

こちらの遊園の入り口には桜があり、タイミングよく満開のような状態でした。また脇にはお地蔵さんが納められてそうな小さなお堂があります。

一般的な公園にありがちですが、この遊園には近隣町内会の倉庫なども多くあります。しかし遊具はもちろんしっかりあります。

8、榎並川第1児童遊園

この第1遊園にも近隣町内会の倉庫があります。滑り台、シーソーなどもあり、園内には季節毎に紅葉や花を楽しめる木々もあります。

9、榎並川第1児童遊園「榎並川跡」

さぁ、いよいよ長かった埋め立てられた榎並川の遊園巡りも最後となりました。ここは一つだけ幼児用の滑り台がある遊園です。以降は道路となっています。かつての榎並川は大川(旧淀川)から水を引いていたので、この延長上がかつての榎並川となっていたことについては、今では古地図でしか確認のしようがありません。

いつ頃埋め立てられたのか?

大阪市城東区の榎並川を紹介するページには、”昭和30年(1955年)代後半に埋められ道路になりましたが、”とあります。実際に航空写真(地図では色々困難ですので)で確認すると、少なくても1961年~1974年の間に埋め立てられたものだと管理人は考えています。

1961年-64年時の航空写真

上の虚空写真は1961年~1964年時の国土地理院が撮影した航空写真です。(解像度がやや粗いです)

埋め立てのプロセスを考えるに、おそらく取水口に近いところから埋め立てるでしょうから、北川から埋め立てが進んでいくものと思われます。そう考えると、上の写真の左上側はかつての榎並川があった筋が白色で見えます。一方下流側はまだ川のようです。白黒写真ですので、あくまでも色ベースの仮説レベルです。

戦後の航空写真と比較してみました。

川・水路といえば、必ず橋がかかっていますが、この時点でまだ同じ場所に橋が残っているように思えます。明暗も異なりますので、赤〇部の白いところは橋、黒いところは水路と考えても良さそうです。若干川幅はせばまっているようですが、この段階ではまだ埋め立てられていないと言えるかと思います。

※都島通沿いにある黒いドットは街路樹でしょうか?だとしたら街路樹として植えられた木の成長は早いですね。或いはある程度成長した木を植えたのかもしれません。(コスト高な方法ではありますけど)

1974年-78年時の航空写真

1974年-78年に撮影された航空写真が左です。1961-64年時にはまだ川だと思われていた榎並川は完全に埋め立てられています。橋らしきものも確認できません。

左上側では川沿い跡に黒く見えるところがありますが、これは南側の建物の影でしょう。上側と下側と色目が違うのも異なる日程で航空写真撮影したものをつなげているからです。(航空写真にはありがちです)

1961年ー64年時に上流のほうがすでに埋め立てられている、と仮定するとその下流のほうが埋め埋め立てられるにももう時間の問題だったかと思います。よって1960年末には少なくてもこのエリアは埋め立てられていたでしょうね。

上流から水が流れてこないと、あとは近隣の工業廃水や生活排水、雨水くらいしか流れないので、衛生環境は良いものと言えなかったでしょうね。ただ、いきなり川を埋め立てても排水している会社や民家も困ってしまうので、下水設置などもあわせて調整しながら埋め立て工事を調整していたと思われます。

写真を取り忘れてしまいましたが、まさにこの遊園下に沿って、下水管が埋められているようです。遊園内で何度もマンホールをみました。

どこから水をひいてきたのか

大川(淀川)から水を引いていたようですが、元となる取水口は具体的にどこかのか、という点は古地図と都島区北部の現地を調査をし、整理できた段階でまた記述したいと思います。

古地図と現代地図と重ね合わせて、これまで榎並川関連で扱ってきた部分をレイヤー表示した地図に水色の破線で書き入れました。さぁ、取水口はどこなのか、今の大阪拘置所あたりか、はたまた毛馬閘門あたりまで遡るのか、継続して調べていきます。

最寄り公共交通機関からの時間

地下鉄谷町線 野江内代駅2番出口:徒歩2分~3分で都島通の内代児童遊園

地下鉄谷町線 都島駅5番出口:徒歩6分で榎並川第1児童遊園

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます。

参考情報

大阪市城東区:榎並川 (…>区のプロフィール>城東区を流れる川) (osaka.lg.jp)

※本ブログで掲載している写真は2021年3月末に撮影したものです。

その他、この榎並川にかかっていたと思われる野江橋の場所の特定、親柱に関する記事はこちらです。

都島区の細長い公園
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