淀川貨物駅の今昔

かつて、大阪市都島区の淀川沿いに広大な貨物駅がありました。当時の情報を整理しつつ、今の淀川貨物駅跡がどのようになっているかという点も整理したいと思います。また貨物駅と同様に電車区(電車の検査・修繕・技術管理など行い、鉄道関係者の事務所がある場所)として機能し、貨物列車の機関車のみならず、客車をはじめ、多くの列車が停車していた時代がありました。淀川貨物駅の前、そして淀川貨物駅の跡地についても、その歴史を追いかけたいと思います。

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淀川 1978/3/14: 懐かしい駅の風景~線路配線図とともに (cocolog-nifty.com)より

場所

場所は今でいうと大阪環状線の桜ノ宮駅北側、谷町線都島駅の左側のエリアです。かなり広い敷地です。以下は、1932年(昭和7年)国土地理院の1/25,000地図からです。左上の青枠部が淀川(貨物駅)です。この時代の地図内の名将は、右側から読みますね。「淀川駅」と記載された下に、平仮名で「さくらのみや」の駅名があり、地図の右下にも平仮名で、「きやうばし」の駅名を確認できます。

埼玉大学提供の「今昔マップ」より

もともと浄水場跡地

このエリア、実は大阪市によってはじめて建設された上水場でした。大阪市内では、明治時代初頭は井戸水や淀川の水をそのまま使っていましたが、コレラなどの病気を引き起こしました。

そこで当時の市年間予算の3倍強の経費と3年余の歳月をかけ61万人の給水能力をもつ施設が整備されたようです。1895年(明治28年)11月13日、大阪市最初の上水が、ここから送水されました。まず水はポンプで大阪城内配水池に揚水し、そここから自然流下式で市内へ給水されました。その後大阪市の発展につれて拡張工事が重ねられましたが、1915年(大正4年)9月に現在の柴島(くにじま)浄水場の完成で閉鎖されました。

市年間予算の3倍強と3年余りの歳月をかけた最初の取水・浄水場でしたが、わずか20年で引退となります。移設できる設備等の一部は柴島(くにじま)浄水場へ移設されたのかもしれません。

都島橋のたもとに、水道発祥の地を伝える碑があります。

開業から廃駅まで

1915年(大正4年)9月に浄水場が移設されてから、1927年(昭和2年)に淀川貨物駅として動き出すまでには、その後12年の歳月が必要です。左側の地図は移設前の1911年(明治44年)の地図、右側は1932年(昭和7年)の地図です。このころには淀川貨物駅を確認できます。

左側が上水道(周辺は農地ですね。) 右側の写真は貨物駅となり、市電の路線も確認できます。
年月日変化点
1927年(昭和2年)12月10日淀川駅開業
1932年(昭和7年)10月20日淀川車庫開設
1936年(昭和11年)9月1日淀川車庫を淀川電車区に改称
1982年(昭和57年)11月15日淀川駅を廃止し淀川信号場へ
1985年(昭和60年)3月14日淀川電車区が移転し、淀川信号場が廃止
Wikipedia 淀川駅より

当時の写真

Webにて当時の写真を探してみました。写真の出典元含めて紹介していきます。

1970年(昭和45年)ごろの写真です。これはおそらく淀川貨物駅に向かう路線を走行しているSLだと思います。淀川貨物駅はもちろん広いですが、この貨物駅に向かうまでの貨物線も横幅が相当に広い路線だったことが改めて伺えます。

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時の流れに郷愁紀行 淀川貨物駅へ向かうD51(京橋or都島) (fc2.com)

撮影時期は不明ですが、京橋方面からの写真です。この奥には大川(昔の淀川)ですね。

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淀川 1978/3/14: 懐かしい駅の風景~線路配線図とともに (cocolog-nifty.com) より
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淀川 1978/3/14: 懐かしい駅の風景~線路配線図とともに (cocolog-nifty.com) より

下は1977年(昭和52年)ごろの写真です。当時環状線及び片町線を走っていた101系が停車されています。

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淀川 1978/3/14: 懐かしい駅の風景~線路配線図とともに (cocolog-nifty.com) より

時期は不明ですが、こちらも淀川駅の電車区内を撮影した写真のようです

NIKKOREX F – あ~今日も酒がうまい (goo.ne.jp) より

蒸気機関車も多くとまっており、今は見ることのできない光景ですね。

1969年(昭和44年)もしくは1970年(昭和45年)の写真のようです。

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時の流れに郷愁紀行 こんな所にもD51が(淀川貨物駅:都島) (fc2.com) より

蒸気機関車の代表格、D51とその横には電化された路線を走る客車(101系?)が見えます。

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時の流れに郷愁紀行 こんな所にもD51が(淀川貨物駅:都島) (fc2.com) より
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時の流れに郷愁紀行 こんな所にもD51が(淀川貨物駅:都島) (fc2.com)

1984年1月。駅としての機能はすでに廃止されており、信号場・電車区としてわずかに残していますが、かつて多くあった路線はすでにわずかです。

 大阪市内にあった淀川貨物駅(1984/1/30撮影) | akaの鉄道最新撮影&秘蔵記録 (ameblo.jp)

1987年ごろの航空写真。ほとんどの建屋や路線が撤去され、更地状態になっています。

埼玉大学さんが提供する今昔マップの航空写真より

淀川駅への連絡線も同様です。航空写真上からはその軌跡をはっきり確認することができます。

埼玉大学さんが提供する今昔マップの航空写真より

今の状況

跡地は再開発され、東側(地図右側)は大阪市の総合医療センターが1989年から工事が始まり1993年に定礎式。隣接には都島中央公園、大阪市都島センタービルが建設され、西側(地図左側)は、桜宮リバーシティとして、高層のタワーマンション、集合住宅が建設されました。

埼玉大学さんが提供する今昔マップ 左がオープンストリートマップ、右側が1968年時地図
オープンストリートマップより

都市型集合住宅プロジェクト開発設計競技(コンペ)に基づいて、民間が提供する超高層タワーマンション(桜宮リバーシティ・ウォータータワープラザ 41階建て)と、住宅・都市整備公団(現:UR都市機構)、大阪市住宅供給公社、勤労者住宅協会の住宅が合計約1000戸建設されています。

工事は1992年から1993年までに実施されています。

Google earthより
Google earthより

まとめ

水、産業としての動脈となった貨物列車、そして電車、大阪市域のインフラとして、十分過ぎるほどの役割を果たし、今は病院、公園、集合住宅となっています。かつての操業時の音が聞こえて・・・はこないですけど、当時を振り返るには十分すぎるほどの歴史があると思います。当時を忍ばせる遺構について、継続して調べてみようと思います。

・1895年:もともとは大阪市最初の上水道送水場としての広大な用地

・1927年:淀川貨物駅として操業開始

・1982年:貨物駅としての機能を終える

・1985年:電車区としての機能を終える

・淀川駅に至る貨物線跡地や道路、緑道、遊歩道、公園となる。

・1989年:跡地は大阪市総合医療センターの工事始まる。1992年まで

・1992年:集合住宅としての工事始まる。1993年まで

関連ページ

かつて淀川貨物駅までを往来する線路を跨ぐ橋が今の道路勾配や線形にもその名残が残っています。

参考リンク

大阪水道の歴史と柴島(くにじま)の由来 – 大阪府保険医協会 (osaka-hk.org)

淀川駅 (国鉄) – Wikipedia

淀川 1978/3/14: 懐かしい駅の風景~線路配線図とともに (cocolog-nifty.com)

時の流れに郷愁紀行 淀川貨物駅へ向かうD51(京橋or都島) (fc2.com)

時の流れに郷愁紀行 こんな所にもD51が(淀川貨物駅:都島) (fc2.com)

大阪市内にあった淀川貨物駅(1984/1/30撮影) | akaの鉄道最新撮影&秘蔵記録 (ameblo.jp)

NIKKOREX F – あ~今日も酒がうまい (goo.ne.jp)

淀川電車区: 大ミハ117のブログ (cocolog-nifty.com)

古地図で愉しむ大阪まち物語: 網島駅と淀川駅 (osakakochizu.blogspot.com)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室) (ktgis.net)

大阪市立総合医療センター – Wikipedia

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