大川から樋之口町-天満を経て堂島川まで繋がっていた天満堀川(大阪市北区)

大阪府北区、大川沿いの西側に「樋之口町」という地名があります。すでに樋門や導水した川を確認することはできませんが、名前を聞くだけで、ははーん、ここはかつて大川からの樋門があった場所に違いないと思って、地名をキーワード検索してみると、別のアングラなネタばかりがヒットし、なかなか探していた情報にたどり着くまでに時間を要しました。間違いなくここには大川から天満へ注ぎ込む水路の樋門・樋口があったのようですが、その歴史を調べてみたところ大変興味深いことがわかったので、改めて整理してみました。

天満堀川:名前の定義

今回取り上げる川は天満堀川というものです。

お城の周りには堀がつきもので、空堀もあれば、水堀もあります。たいていは水がたたえられていることが多いです。天下の名城、大坂城の周りにも自然の川はもとより、堀が何重にもあり、戦国の世が終わり、江戸時代の太平の世になっても水運を活かして多くの堀が開削されました。各大名の蔵が川沿いにでき、米の売買はもとより、地域の特産品など、日本全国の名産品なども集まる一大市場だったわけです。今回のブログで整理するのは、「天満堀川」と呼ばれ、お城の北側(大阪市北区)に位置しているものです。

大阪市が説明する「水の都」大阪のコラムには、以下のような説明があります。

かつて大阪には、網の目のように堀川がめぐらされ「水の都」と呼ばれていた。計画的な堀川は、秀吉が大坂城外堀として堀った東横堀川(天正13年 1585、または文録3年、1594)が最初である。江戸時代になると大坂の町の発展にともない、淀川デルタ地帯の整地がもとめられ、低地の排水と地面のかさ上げ用の土砂の必要から、堀川が掘られたものと考えられ、その堀川は舟運に利用された。
 それらの堀川沿いには、各藩の蔵屋敷や倉庫が並びその後の大阪の発展に大きく寄与した。明治以後も掘りつづけられたが、このときの主目的は舟運にあり、名称も運河といわれた。
 戦後になって、戦災の瓦礫処理のため、下水道の完備で不要となった堀川は埋め立てられ今では東横堀川・道頓堀川などが残るだけとなった。

大阪市:「水の都」大阪 コラムより

(埋め立てられたおもな堀川としては以下の通りです。1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川  11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川

かつての堀川の多くは埋め立てられてしまいましたが、今回は一番北側の「天満堀川」について整理します。

天満堀川の全体図

Googleマップにプロットしてみました。

都市高速はその用地確保の便宜上、市内を流れる川を埋め立てたり、その上で建設されることがしばしばこの天満堀川もまさにそのテンプレのようなものです。今は阪神高速1号環状線もしくは阪神高速12号守口線がかつての川の上を通っています。

天満堀川の歴史

いわゆる堀川は防衛の目的のために開削されることが多く、また大阪の堀川は太平の世になってから、いわゆる日本の東西の物資集積地として、その商いの中心地として、水運を最大活用すべく開削された堀もありますが、この天満堀川については別の要素も含んで堀となっています。

1598年(慶長3年)開削

関ケ原の合戦の2年前に開削されました。しかし当時は、堂島川から北区の中心部に入るための「入り堀」といったもので、大川と堂島川がつながっているわけではありませんでした。豊臣秀吉が日本を統一した後になくなったのがまさにこの年です。難攻不落の大坂城の防衛というよりかは、経済・物流の側面があったものと思われます。

1838年天保9年)大川への延長開削

当時の時代背景から含めて説明する必要ありますが、一言でいえば失業者が増えたため、そのための公共事業として天満から大川へ延長開削したとのことです。(以下地図の水色線部)

天保7年(1836年)、「天保の大飢饉」により、各地で百姓一揆が多発していた時代でした。ここ大坂では地域の救済を行うべき奉行所の役人が立身出世のため、大坂の窮状を省みず、豪商から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していました。この問題に対して建議書や申し入れなど与力としてできる限りの活動をしていた大塩平八郎がついに挙兵。「救民」の旗を上げて豪商の倉などを襲撃。乱は密告により当初予定していた決起日前にお上に露見していたこともあり、わずか半日で鎮圧され、収束となりました。

その後、大坂域内は大火事により1/3を焼失したと言われています。そもそもの大飢饉はもとより、大塩焼けと呼ばれた大火事で仕事を失った人たち向けの救済措置としての公共事業により、天満から大川に向けて東北方面へ延長開削されたのことです。この部分がまさに防衛のとしての堀川だったり、経済・物流活動としての水路としての違いでしょう。

1968年(昭和43年) 埋立

都市化・モータリゼーションの進展に伴い、役目を終えた川の末路は悲惨です。都市インフラとしての用地確保として、てっとり早いのは、河川を埋め立てることです。道路面積が不足している市政としても慢性化した市内渋滞の解消にむけて、河川だった場所を道路へ転用でき、さらに高架の都市高速にすることで、新たに確保した道路に加えて2倍の道路容量を確保できるわけですから、用地取得に長い時間や労力を要するよりも、川を埋め立てたほうが早い、という判断になったわけでしょう。

まさにこの年の1968年(昭和43年)5月1日 :に現在の天神橋JCTから森小路までの阪神高速12号線守口線の一部として開通しています。

かつての地図・航空写真の振り返り

各年代でどのようなものだったのか、古地図や航空写真を振り返ってみたいと思います。古くは江戸時代の地図や明治以降の地図、そして戦前の航空写真から追っていきたいと思います。

1657年(明暦3年):新板大坂之圖

徳川泰平の世となった時代の地図です。当時の地図は東側が上になってかかれていまいたが、今の地図感覚でわかりやすいよう北側を上にしています。全体図と拡大図です。全体地図の右側に大坂城があります。

地図の所属:国際日本文化研究センター

この地図では今の扇町公園までまっすぐに堀川があり、6つの橋を確認できます。つきあたりの右側に松林と神社のような絵があり、「いけ」・「いけ」の記述を確認できます。池が二つあったのでしょう。

1837年(天保8年):天保新改攝州大阪全圖

天満堀川が大川まで延長開削される前年までの地図です。この地図は、北が南側になっていますが、見易さを考えて、北を上へ持って生きています。左側が大阪界隈の全体、赤い矩形部が今回の天満堀川部です。扇町公園部から東の淀川(今の大川)へ伸びている小さな川らしきものを確認できます。また途中には池もあります。

地図の所属:国際日本文化研究センター

もう少し拡大してみることにします。

地図の所属:国際日本文化研究センター

天満堀川には北側から注ぐ蛇行した水路のようなものと、東の淀川(大川)へ伸びる細い川を確認できます。川はあったものの、小さな井路のような細い水路だったことが伺えます。

この翌年に一大公共事業として、斜めに向けて新たに広い堀として開削事業が進められることになったということでしょう。

1908年(明治41年):大阪東北部

水路となる青線部は、私が書き入れました。かつての天満堀川の流れです。今の樋ノ口町界隈には、右読みですが「紡績會社」や「織物會社」などを確認できます。今の扇町公園は、かつては監獄があったようで、堀川に近いことから堀川監獄と呼ばれていたようです。その後、堺へ移動したようです。

大川の右側には大阪発の浄水場があります。後の淀川貨物駅ですね。

天満からなぜ東北方面へ開削したのか、という理由について確証はないのですが、大川から導水しやすい角度であったことが全体の地図からもわかります。丁度川の向きが緩やかではありますが、かわりかけているところを目指して堀が伸びてていることがわかります。

昭和4年:大阪東北部

樋之口町周りには工場が多いです。「紡績會社」の下には「伸銅會社」の文字も見えるでしょうか。かつての堀川監獄(今の扇町公園)内には複数の学校マークを確認できます。その他官公庁施設もありますね。この頃は路面電車が大阪市内あちこちに張り巡らされているのがわかりますね。天満堀川は環状線の下をくぐったのを皮切りに4回も路面電車下を抜けています。

1936年(昭和11年)時の航空写真

白黒写真ですが、堀を航空写真でもはっきり確認できるので、青線を引くのはためらうところあります。地図では私が青線を書き入れましたが、航空写真ではその川幅が当初の堂島川から天満までの南北に延びる天満堀川から、東へ伸び、その後東北方面に向けてほぼほぼ同じ川幅で伸びていることがわかるかと思います。

1945年-50年(昭和20年-25年):戦後の航空写真

空襲による爪痕が深いです。木製の建屋の多くが焼夷弾によって焼けてしまったかと思いますが、皮肉なことに、天満堀川が際立っています。

1961年-64年(昭和36年-39年)時の航空写真

戦後の復興で立ち上がり、1964年には東京オリンピックがアジアで初めて開催されたタイミングです。都市の急激な成長の中、すでにこのころには都市高速として、その用地としてこの天満堀川の埋め立ても規定路線にあったんでしょうね。

「都市の潤いとして」などという議論ができるのは、その後都市機能として成熟し、恵まれた環境だからかもしれませんね。当時はとにかく渋滞解消、道路キャパ拡大といった問題に直面し、都市高速整備などの大型の公共投資もどんどんされていた時勢ですしね。

1967年(昭和42年)時の地図

地図としてはこのタイミングが最後でしょうか。地図上でも天満堀川とその川に架かる橋を地図上でも確認できます。

1978年(昭和53年):大阪東北部

平面上の地図ではかつての天満堀川の上を都市高速が入っていることがわかります。堂島川で都市高速環状線のジャンクションも確認でき、天満から大川に関しては左右にまだ多くの工場を確認できます。

1979年-83年:航空写真

大都市の大阪市内の都市高速をはっきり確認できます。扇町公園内にはプールらしきものを確認できます。天満堀川への導水口、かつて樋門があった場所の向かいには淀川貨物駅を確認でき、その西側にあった大阪市電の車庫もなくなっており、更地と運動場になっていることも確認できます。

天満堀川の今

また後日、地図と写真を組み合わせた記事を検討していますが、今手持ちの写真を掲載しておきたいと思います。かつてお堀として色んな物資を積んだ舟が行き交う姿を見てみたかったものです。今では灰色の道路となってしまい、都市交通に貢献しているとはいえ、水都大阪を担う素晴らしい堀の一つだったことでしょうね。

国道一号線と交差する部分は、アンダーパスになっています。さらにその上を阪神高速が走ります。

JR天満駅西側です。環状線を跨ぐところはかつては天満堀川を跨ぐ橋梁でした。車高の高い大型車も通行できるよう若干低くなっています。かつては天満堀川の上をJR環状線が走っていましたが、今は環状線の下を一般道路がアンダーパスのように抜け、その上を阪神高速12号守口線が走ります。

最後に

かつての天満堀川のあった場所を実際に通ると車の車線でいうと、4車線は軽くあり、おそらく10mほどの川幅があったものと思われます。今回は地図を中心に整理しましたが、実際に川の流れていた場所、そして天神橋商店街を交差するあたりにあった池、架かっていた橋、最寄りの扇町公園の変遷、大川沿いに多くあった工場など、実地ベースで引き続き当時の遺構などを探してみたいと思います。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

関連ページ

川に関連する樋門に関しては、大東市のケースで以前調べた記事はこちらです。

大阪市北区にあった天満堀川
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