はじめに
大阪府大東市御供田地区を散策していると、恩智川沿いに立派な蔵を構えた旧家を発見することができました。現在の恩智川は1970年代の大規模河川改修により大幅に線形が変更されており、かつての流路は「恩智川薄井貯留施設」として整備され、緑地公園となっています。この地域の古地図と現在の航空写真を比較しながら、旧家の蔵の特徴と併せて、この地区の歴史的変遷を整理してみました。
御供田地区の位置と現在の状況

大東市御供田地区は、現在のJR学研都市線住道駅から南東約2キロメートルに位置する地域です。恩智川は柏原市の高尾山麓を源流とし、八尾市、東大阪市を経て大東市の住道駅前で寝屋川に合流する延長約15.4キロメートルの河川です。
現在の恩智川沿いには新興住宅地が広がっていますが、御供田地区には今でも伝統的な建築様式の旧家と蔵を見ることができます。特に興味深いのは、かつての恩智川の流路跡が現在「恩智川薄井貯留施設」として整備されている点です。
恩智川の河川改修と流路変更の歴史
恩智川は数千年前からほぼ現在の位置に沿って流れていたとされていますが、大東市付近では大きな地形的変化を経験しています。1704年(宝永元年)の大和川付け替えにより、この地域にあった「深野池」が消失し、恩智川の流路が現在の位置に設けられることとなりました。
しかし、かつての恩智川は川幅が狭く、山からの土砂が堆積しやすい状況にありました。特に1973年(昭和48年)には流域が広範囲にわたって浸水する大きな被害が発生しました。これを受けて、1973年から4年ほどかけて大規模な治水工事が実施されました。この工事により、川幅の大幅拡張、川床の掘り下げ、川岸の護岸工事が行われ、現在見ることができる恩智川の姿となったと考えています。
航空写真から見る地域の変遷
航空写真を時代順に確認すると、恩智川の流路変更の過程を明確に見ることができます。

1942年の航空写真では、御供田地区は主に田畑が広がる農村地帯でした。恩智川は現在よりも蛇行しており、周辺は低湿地帯として農業に適した環境だったことが伺えます。この時代には、現在蔵が確認できる場所の周辺にも既に建物群が存在していました。

1945年から50年の戦後間もない時期の航空写真では、戦災の影響はこの地域には比較的少なかったようで、農村景観が維持されています。1980年代の航空写真になると、住宅地開発が進み、現在に近い市街地の姿が見えてきます。

この変遷からは、御供田地区が戦前から続く歴史ある農村地帯であり、戦後の高度経済成長期を経て現在の住宅地へと変化していった過程を読み取ることができると思っています。
御供田地区で発見した複数の蔵建築
現地調査では、恩智川薄井貯留施設周辺の複数箇所で、保存状態の良い蔵建築を確認することができました。これらの蔵は、それぞれ異なる特徴を持ちながらも、共通した関西地方の伝統的な土蔵造りの様式を踏襲しています。
第一の蔵:白漆喰仕上げの二階建て土蔵

最初に確認した蔵は、恩智川薄井貯留施設の南側に位置する旧家に属するものです。
建築様式の特徴 この蔵は二階建ての土蔵造りで、外壁は美しい白漆喰で仕上げられています。屋根は瓦葺きで、大棟には鬼瓦が設置されており、伝統的な関西地方の蔵建築の様式を踏襲していると考えています。二階部分には小さな窓が設けられており、採光と通風を考慮した設計となっています。

第二の蔵:木板張り外壁の蔵

別の場所で発見した蔵は、下部が白漆喰、上部が縦板張りという特徴的な外観を持っています。この蔵の興味深い点は、木部の経年変化による味わい深い色合いです。

外壁の特徴 基礎部分から腰高まで白漆喰で仕上げられ、その上部は縦格子状の木板張りとなっています。この木板は杉材と思われ、長年の風雨により深い褐色に変化しており、建築当初から相当な年月が経過していることを物語っています。
屋根と軒の構造 瓦葺きの屋根は比較的急勾配で、軒の出も深く設計されています。これは雨水から壁面を保護するための工夫と考えられます。
第三の蔵:大型の商家系蔵

さらに調査を進めると、前二者よりも大規模な蔵を確認できました。この蔵は商家系の蔵の特徴を持っていると思われます。

規模と構造 この蔵は高さ、幅ともに他の蔵より大きく、二階建てながら各階の天井高も高く設計されています。外壁は全面白漆喰仕上げで、腰部分には石積みの基礎が確認できます。
扉と開口部 正面には大型の観音開きの扉が設置されており、金具類も非常に重厚な造りとなっています。これは大量の商品や財産を安全に保管するための構造と考えられます。
共通する防火・防湿構造
これらの蔵に共通するのは、火災からの保護と湿気対策を重視した構造です。厚い土壁と漆喰仕上げは、外部からの火災の延焼を防ぐとともに、内部の湿度を適切に保つ機能を持っています。また、全ての蔵で基礎部分が地面から十分に高く設計されており、地面からの湿気の侵入を防ぐ工夫が見られます。
立地の共通点
興味深いことに、確認した全ての蔵が、かつての恩智川に近い立地にありながら、洪水時でも浸水しにくい微高地に建設されています。これは地形を熟知した先人の知恵を表しており、水運の利便性と災害時の安全性を両立させた立地選択と感じています。
農村地帯としての御供田地区の歴史
御供田という地名は、神社に供える田という意味を持つとされており、この地域が古くから稲作を中心とした農業地帯であったことを物語っています。恩智川の豊富な水資源と肥沃な沖積土壌は、稲作に適した環境を提供していました。
発見した旧家も、おそらく戦前から続く農家であり、蔵は収穫した米や農具、季節用品などを保管する重要な役割を果たしていたものと推察されます。蔵の規模や建築の質の高さから、この地域での有力な農家であった可能性が高いと思っています。
恩智川薄井貯留施設の現在

かつて恩智川が流れていた場所は、現在「恩智川薄井貯留施設」として整備されています。この施設は平常時は緑地公園として住民の憩いの場となっており、大雨時には一時的に雨水を貯留する調整池としての機能を持っています。

現地を歩いてみると、公園は周辺の住宅地よりも一段低い位置にあり、かつてここに川が流れていたことを実感することができます。遊歩道が整備され、桜の木なども植えられており、四季を通じて住民に親しまれる空間となっています。
蔵建築に見る地域社会の変遷
御供田地区で確認した複数の蔵は、それぞれ異なる時代背景と社会階層を反映していると考えています。
農家系蔵と商家系蔵の特徴
最初に確認した白漆喰の蔵は、農家系の蔵の典型的な特徴を持っています。規模は比較的コンパクトながら、米穀や農具の保管に必要十分な機能を備えています。一方、大型の蔵は商家系の特徴を示しており、より多くの商品や財産を保管する目的で建設されたものと推察されます。
これらの違いは、御供田地区が単なる農村地帯ではなく、恩智川の水運を活かした商業活動も行われていた地域であったことを示していると思っています。
建築技術と職人技
木板張りの蔵で確認できる縦格子状の板張り技術は、高度な大工技術を要するものです。板と板の継ぎ目の処理、全体のバランス、経年変化を考慮した木材選択など、熟練した職人の技術が随所に見られます。
また、漆喰仕上げの技術も、単に白く塗るだけでなく、下地処理から仕上げまで複数の工程を経た専門的な左官技術の結果と考えられます。これらの蔵の存在は、この地域に優秀な職人集団が存在していたことを物語っていると感じています。
地域の歴史的価値と今後の保存
御供田地区で発見した複数の蔵建築は、この地域の農村時代からの歴史を物語る貴重な建造物群と考えています。大阪府下では都市化の進展により、このような伝統的な蔵を持つ建築群は年々減少しており、文化的・歴史的価値が非常に高いものと思っています。
特に注目すべきは、異なる系統の蔵が一つの地区に現存していることです。これは御供田地区が、農業と商業が共存する複合的な地域社会を形成していたことの証左と考えられます。
また、これらの蔵が現在でも比較的良好な保存状態を保っているのは、地域住民の文化財に対する理解と維持管理への努力の賜物と思っています。今後も地域の貴重な文化的資産として、適切な保存と活用が図られることを願っています。
まとめ
大東市御供田地区の散策を通じて、恩智川の河川改修の歴史と、戦前から続く複数の蔵建築群を確認することができました。1970年代の大規模治水工事により大きく変化したこの地域ですが、農家系と商家系それぞれの特徴を持つ蔵建築という形で地域の歴史が今でも息づいています。
白漆喰仕上げの蔵、木板張りの蔵、大型の商家系蔵といった多様な建築様式が一つの地区に現存していることは、御供田地区が農業と商業が共存する複合的な地域社会であったことを物語っています。これらの蔵は、単なる倉庫建築ではなく、地域の社会構造、経済活動、職人技術の発達を示す貴重な文化的資産と考えています。
かつての恩智川流路が貯留施設として活用され、周辺に住宅地が形成される中で、これらの伝統的な蔵建築群が保存されている光景は、過去と現在が共存する興味深い景観を作り出していると感じています。このような歴史的建造物群が末永く保存され、地域の文化的資産として次世代に継承されることを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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