都島駅南にある道路の勾配の謎に迫る

大阪市営谷町線の都島駅から南の京橋方面へ向かう道路は、ゆるやかな曲線のカーブが2回あり、かつ周辺地域の平坦なのに対して、道路に勾配があります。道路を車や自転車で通ると、その不自然な道路構造を感じます。古地図を紐解いて、なぜちょっとおかしな線形になっているのか、なぜ勾配があるのか、を調べてみました。

対象とするエリア・道路

都島区を横切る谷町線の都島通駅の南側にあり、JR環状線の桜ノ宮駅の西側にある道路です。幹線道路で車の流れは多いです。地図上では気が付かないところが多いですが、都島駅側・そして京橋側からこの道路を通ると、妙な勾配があります。

具体的にはそれぞれ北側の都島、南側の京橋からはこんな感じです。ゆるやかな登り勾配です。

両方面から緩やかに上ったと思ったら、今度は下ります。(写真を撮ったタイミングが違っていて、昼夜逆ですいません。)ファッ!?上がって、下がって、また上がって、下がってと・・・

なんじゃこの道は~と最初初めて通った時から不思議でした。

私はこの道を何度も往復していた時期があったのですが、よくよくみると両サイドは平坦で、まさにこの道だけなんです。

なぜ両サイドで一度上がって、また下るのか、それには理由があったわけです。

【結論】かつて貨物線を跨ぐ陸橋だった

大阪市中央図書館にて、都島区制50周年を記念に整理された、「みやこじま今昔写真集」にて、この界隈の昔の写真をみた際に、私の疑問を晴らす1枚の写真がありました。1971年時(昭和46年)の写真です。

「みやこじま今昔写真集」より

拡大し過ぎてぼやけてしまっていますが、かつて今の「おおさか東線」もしくは「環状線」から分岐して今のリバーサイドシティにあった淀川車庫駅に向かう路線を跨ぐものだったわけです。

淀川貨物駅はここから目と鼻の先であり、徐行運転をする貨物線を横切る際に、もし踏切を設けようものなら、幹線道路の流れに大きく影響があると判断したからでしょうか、陸橋になっています。若干おかしな曲線になっているのは、架橋するにあたって、線路を跨ぐ橋の距離をできるだけ短くしたかったか、あるいは用地取得の都合もあったからでしょうか。淀川貨物線・淀川貨物駅については以下の記事もご参考にしてください。

道路の勾配理由

淀川駅が1985年にその役目を終えて、廃駅となり、かつての駅や鉄道路線は不要となりました。しばらくは路線などは残っていたかと思いますが、その路線は不要となり鉄路なども取り除かれて廃線となり、その後線路を跨いでいた道路の架橋部も不要になり、橋そのものは撤去されましたが、橋に至るまでの盛り土部分はそのままとしたため、不自然な勾配が残ったものと思われます。

実際にはゆるやかに2回曲がっていますが、絵心ない私が無理やりこの勾配をわかりやすく描くとこんな感じでしょうか。

淀川貨物船を跨いでいた際

その後架橋部が除外された後には、勾配に沿った盛り土をして今はこのようになっていると思っています。

貨物線が廃線になって架橋部を除外した際の状態(現在)

実際は都島側で二回カーブしていますが、無理やり垂直断面図にするとこのようなものでしょうか。

京橋からのほうが上りの勾配区間が長く、都島側は上り部分は、盛り土と上り架橋の2つを使っていたためで、上り架橋部が不要になったため、都島側のほうが勾配が緩いものだと思われます。

各年代の地図や航空写真での変遷を追う

各年代の地図や航空写真で変遷を振り返ってみたいと思います。

明治41年(1908年時)の地図

この頃の都島区はまだ大阪市に編入されておらず、周りは畑ばかりです。それでも城東線(今の環状線)や桜ノ宮分岐線などのかつての鉄道路線を確認できます。

昭和9年(1929年)時の地図

淀川貨物駅に向かう線路を跨ぐまたぐような地図記述になっています。一方、その南側は環状線がありますが、ここは逆で道路の上を環状線が跨ぐようになっていることが地図で読み取れます。

拡大すると、JR環状線の下をくぐる前に、大阪市電の駅があり、貨物線を跨ぎカーブを2回乗り換えたとところにも市電の駅があることを確認できます。(道路に沿った細い長方形が市電駅のマークです)

また道路には、大阪市電の軌道交通も一緒に走っており、京橋方面からだと、まずチンチン電車が環状線の下をくぐり、そしてしばらくすると、今度は淀川貨物線の上を陸橋で渡るという鉄道ファンならずとも立体交差の多い地域でワクワクするところがあったかと思います。

「みやこじま今昔写真集」より

環状線の下をくぐる道路

昭和9年(1936年)の航空写真

今と同様、この頃はすでに多くの建屋があります。貨物線を跨ぐ陸橋の影があり、よくわかります。

中央に市電も走る幹線道路としては十分な広さがありますが、北側の道路がやや窮屈のようにも見ます。今後拡幅されたものと思います。

昭和20年~25年(1945年-1950年)時の航空写真

太平洋戦争終了後に撮影された航空写真です。戦前では貨物線の北側部分がやや窮屈感ありましたが、ほぼほぼ今の道路に近い状態だと言えます。

道路部が真っ白に写っているので、わかりやすいですが、線路を跨ぐ直線部分の架橋部と、都島側から上ってくる架橋部が接続されているがゆえに、ちょっと100度くらいで曲がっているような橋になっています。

本編からは脱線しますが、米軍の空襲により、都島区も甚大な被害を受けていることが、如実にわかります。かつて周りを埋め尽くしていた建屋の多くは、紙と木でできている日本家屋を爆弾よりも効率よく焼き払うことを目的に開発された焼夷弾の影響で、焼け野原です。残っている建屋コンクリート造りのものくらいでしょうか。。。

昭和36年-39年(1960年-1963年)時の航空写真

オリンピックを控え、日本は「もはや戦後ではない」と言われるくらいまで立て直してきた時期です。

昭和49年-53年(1974年-78年)の航空写真

この頃からカラー化されています。かつて走った大阪市電のチンチン電車は1966年に市電の全廃が市議会で決議され、翌年以降から各路線廃線され、1970年前には全ての路線が廃止になっています。この時の航空写真には軌道路線を確認できない、完全片側2車線の道路をはっきり確認できます。

昭和59年-61年(1984年-86年)の航空写真

淀川貨物駅が廃駅になったのが1985年だとすると、この航空写真は1986年に撮影されたものだと思われますが、写真左上の貨物駅界隈の鉄道の撤去は進んでいますが、貨物線周りの鉄路はまだ残っていますね。

最新航空写真

かつては貨物線を跨ぐ橋でしたが、すでに橋は撤去たことにより、いわゆる普通の道路になっています。それに伴い、貨物線を渡って最初の曲がり角が、鈍角のような曲がりではありましたが、橋がなくなったことにより、カーブのように緩やかになっていますね。またかつての鉄道路線は公園や空き地、駐車場になっていることがわかります。

橋そのものは撤去されましたが、両サイドにあった橋をかけるまでの盛り土部分は若干残されているがゆえに、この道路の周りはなんら勾配のない平坦な地域なのに対して、道路上では勾配があるということがわかりました。

架橋の接続の都合で、かつて110度くらいで曲がっていた場所も今では滑らかなカーブとなっています。(赤枠部の変化)

最後に

社会インフラである、道路、鉄道、橋は時代とともに変化していきますが、普段何気なく通っている道路の起伏にも理由がありました。かつて貨物線を走っていた蒸気機関車や気動車、チンチン電車などは過去のものとなりつつも、小さなきっかけで歴史を振り返る機会があり、それを突き止めることができたのが嬉しかったです。

同じような疑問を持たれた方がなにかの縁でこの内容を読んでくださり、小さな疑問が解消されたのであれば、それもまた嬉しいです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

大阪市都島区にある道路の勾配の謎について。なぜ上って下がって、また上って下がるのか
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