京橋界隈の井路川(筋遺井路川)跡地の遺構

京橋駅のある都島区、西には淀川の支流の大川、北には淀川があり、南には寝屋川が流れる三方ともに、河川に囲まれている地域です。かつては農村地帯だった旭区、都島区、城東区に沢山の井路川(いじがわ)と呼ばれる小さな川・水路が流れていたようです。今ではほとんどの井路川は埋め立てられて道路や公園になっています。京橋駅界隈で、この井路川を確定できる遺構を発見しましたので、古地図含めて整理したいと思います。

そもそも井路川とは?

大阪市HP、今も流れる猫間川 – 「猫間川源流探検記」 (fc2.com)より

 江戸時代以来、新田のいたるところで水利や運搬のための井路川という水路が掘られ、農具や刈り取った作物を積んで、家と田の間を、また市場へ野菜を売りに行ったり、肥料である肥えの収集などに利用されてきた。その際には、「三枚板(さんまいいた)」と言われる幅三尺、長さ三間の舟(船底が三枚板になった小舟)が使われていた。
 この井路川は、新田の動脈でもあり、また象徴でもあって、近世の大阪発展に大きな役割を果たしてきた。

大阪市旭区HP 昔の水路『井路川』より

この「井路川」は各地にあったため、名称としてその地域名を冠して「〇〇井路川」と区別されていたようです。

大坂城の北部から東方面には新田展開とともに多くの井路川がありました。京橋界隈以外の井路川については別項にて紹介していきたいと思います。

京橋界隈の古地図から

京橋からの道のり

今回対象とする井路川埋め立て跡の場所はこちらです。JR、京阪、地下鉄いずれの駅からでも4分から8分ほどで到着できます。下は地下鉄もよりからの検索結果です。遺構を見れる場所にはホテル街を通過する必要があります。

明治時代の湿地地図から

いつもの埼玉大学さんの提供の「今昔マップ」を使い、明治時代の国土地理院が発行した低湿地図(左)と今の地図を並べてみました。

上図赤枠部が丁度、京橋~桜ノ宮間の環状線部です。たしかに川らしきものが南北に流れていることを確認できます。東側(右側)はおそらく榎並川、南側は鯰江川(そのしたは今の寝屋川)を確認でき、北側、西側にも井路川を確認することができます。

現地の写真はこんな感じです。車は1台が通り抜けれるくらいです。歩行者がいるときはぎりぎりのくらいの幅です。

1911年(明治44年)の地図との比較

明治末の1911年(明治44年)に発行された国土地理院地図(右側)との対比です。地図上では白黒ですが、左の水色の水路とほぼほぼ一致しています。たしかにここには水路、井路川があったことを確認できます。おそらく鉄道の下を川が南北に横切っていたが伺えます。

右側地図の赤枠の左下に、関西鉄道がターミナル駅を期待して開業するも、わずか15年で廃駅となってしまった網島駅(あみじまえき)も確認できます。

1914年(大正3年)時

ここの節がメインとなり、当時の遺構を確認できる点です。

今は川ではなく、環状線の下をぬける車両・歩行者用の道となっていますが、かつては井路川を跨ぐ、橋梁であったことを確認できるプレートがあります。

「筋遺井路」+「架道橋」となります。

東側の橋台上部に非常にちいさいながらもプレートがあります。

間違いなく、橋であり、そしてそこには「井路」が流れていたことを裏付けるものだと思います。そしてその井路川の名前も、「筋遺井路川」であった可能性が非常に高いと思われます。

かつては煉瓦部に橋がかかっていた?

煉瓦が土台にあり、その上にコンクリートがあり、その上を橋(線路)がかかっており、この部分は高さ3.4mの高さとなっていますが、環状線(以前は、城東線と呼ばれていた時代)開業当初は、もっと低い位置を走っていたように思えます。このように考える仮説の一つに、煉瓦部の構造と床石(ヘッドストーン)の存在と、段差構造となっている煉瓦土台の存在があります。床石は4つを確認できます。

赤枠部のおおきな石が床石部

また、煉瓦の段差構造については下の写真を確認ください。黄色線は境目がわかりやすいよう、管理人が写真に書いています。

これを説明する技術的な内容と、事例が「私設 うたづ歴史館」さんのブログにわかりやすく整理されており、事例の写真もあります。

床石部にまず鉄骨のようなものを渡し、その上に枕木を鉄骨に対して垂直に敷設し、さらにその上に初めて鉄道レールがひかれています。

研究ノート 香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討(2):私設 うたづ歴史館:SSブログ (ss-blog.jp)

京橋最寄りの筋遺井路架道橋についても、床石と段差、この2つの条件を満たしており、かつては今の高架部よりも低いところを走っていたのかもしれません。現在の道路から、床石までの高さは180㎝ほどでしょうか。

当初から、今の高さの高架であれば、床石もいらなかったはずです。煉瓦を組み上げて、その上からコンクリートでさらに盛ればよかったかと思いますが、現在高さ増しされているコンクリートはその後の城東線の事情に沿って積み上げられたものと考えられます。継続してその理由や事情を探っていきたいとおもいます。

今回の収穫は、京橋もよりの井路川があったことを示す遺構として、架道橋名と現存する煉瓦の橋梁部で確認できたこと、煉瓦部の床石からさらにコンクリで積み増しされ、城東線(環状線)が当初と比べて若干高くなった(と思われる)点について、確認できた点です。

煉瓦部はおそらく、1895年(明治28年)10月17日に城東線 玉造駅 – 梅田駅間 が、同年5月に先行して開業した天王寺駅 - 玉造駅間の延伸として開業したことから、今から126年前は、煉瓦部の高さを環状線が走っていたと思われます。
その後、1914年(大正3年)に今の高さになったのでは(プレートもその時のもの)ではないかと考えています。

いつごろ埋め立てられたのか

Photo AC rice-momoさん

ほとんどの井路川が農村地域から市街化へ伴って埋め立てられていきますが、今回の筋遺井路川がいつごろ埋め立てられたのか、古地図をベースに調べてみました。

以下、左の地図が1911年(明治44年)、右の地図が1932年(昭和7年)時に国土地理院地図です。右側の地図では、すでに埋め立てられており、道路となっていることを確認できます。周囲には工場や学校があり、かつての田園地帯というよりかは建屋が多く、すでにこの時点で埋め立てられていることがわかります。この2つの地図からの情報では、大正時代から昭和初期のどこかで埋め立てられてしまったものと思われます。

埼玉大学さんの「今昔マップ」より

どうしても知りたくなったので、大正時代の地図を求めて国土地理院アーカイブ「地図・空中写真閲覧サービス」を使って調べてみました。

1926年(大正15年)の地図がありました。南から北西へ伸びる城東線と東から来る貨物線が一緒になる地点がありますが、非常に不鮮明でそれが道なのか、川なのかというところまでは確認できませんでした。しかし西側に大きな池のようなものがあり、そこにつながっていると仮定すれば、1926年(大正15年)時にはまだ川であり、埋め立てられたのは1927年(昭和2年)から1932年(昭和7年)までの間になりますね。

ちなみにですが、東から伸びてくる路線、このころは城東線(環状線)につながっていたようですね。淀川貨物駅が開業するのが1926年(昭和2年)12月ですから、この1年後に、京橋~桜ノ宮間を平行するように、淀川貨物線が整備されたいったものと思われます。

また、網島駅があった場所に右読みで、「工業大学」の文字があります。こちらについては、こちらのページにてまとめています。

京橋界隈、歴史の移り変わりが多く、現代であっても当時の遺構含めてみるものが多いなあと改めて感じます。

参考資料

昔の水路『井路川』

大阪市城東区:榎並川 (…>区のプロフィール>城東区を流れる川) (osaka.lg.jp)

今も流れる猫間川 – 「猫間川源流探検記」 (fc2.com)

研究ノート 香川県における鉄道橋梁下部構造の考古学的検討(2):私設 うたづ歴史館:SSブログ (ss-blog.jp)

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