鴫野西にあった鐘淵(鐘紡)運河の遺構を探る

前回、大阪市城東区のに鴫野西には鐘淵工場の広大な敷地があり、寝屋川から「h」型の運河が開削されたて時代を古地図ベースで確認しました。今回、当地での遺構がないかを調べ、かつて運河にかかっていたであろう橋の親柱を確認することができました。近代に開削された運河、曲がり角は広い用地になっており、その曲がり角は今も公園の形として時代に爪痕を残しています。おさらいとして前回の記事はこちらとなります。

何を探るか

昭和4年(1929年)の1/10000の地図から、この運河にかけられた橋は9本あることが確認できました。(地図の左上が京橋駅、中段右側には、今は鴫野駅がありますが、この時点では駅は開業していません)

実際に当地を訪問し、これら橋の跡を確認できるものがあるかどうか、また運河・水路だったことが伺える遺構があるかどうかを調査してきました。大阪市内には、かつて堀、水路が多くあり、時代の流れて埋め立てられても、橋の親柱や欄干などを近くに残してくれているケースもかなりあるため、それに期待したいです。ちなみに、京橋駅南を流れていた鯰江川、京橋駅東側を流れていた榎並川にかけられていたと思われる親柱はこの近くで見ることが出来る古い橋の遺構の一つです。

当地の遺構写真

①:櫻橋

当然、現代には水路はないのですが、寝屋川沿いの道路は堤防道路のような感じで、付近の建屋も高いです。通りの建物やまだ古い昭和感が残っています。

そしてかつて水路だったところは今は公園になっています。ここにかつて東西にかかっていた橋の親柱だと思われる遺構を公園の入り口付近で確認することができました。公園は道路より低い場所あり、公園に入るには階段を降りるのですが、その降りた両脇にあるのは・・・

公園の北側入り口(寝屋川側)

両サイドにしっかりあります。近づいて写真もとりました。何か彫られている跡がありましたが、北側はわかりません。葉っぱのようにも見えます。

公園側から見ると「櫻橋」があります。この階段と親柱は同じような石材に思えますし、この階段はひょっとして不要となった橋の廃物利用かなとも思ってしまいました。

階段を下りて、公園を背にして寝屋川に向かった写真です。右側の柱には「櫻橋」、左側の柱にはひらがなで「さくらばし」の刻銘を確認できます。

公園内は色んな木々があり、普通の公園よりも単位面積あたりの木の数や遊具の数が多いような気がします。

②:城東橋(じょうとうばし)

先ほどの公園を北から南へと抜けると道路がありますが、ここが「城東橋」があった場所と古地図と現代地図でも一致します。

てっきり小さな親柱かなと思ったら、今の公園の名前でした。「さくら公園」と石に刻まれています。その奥にあるのは、まさに橋の親柱ですね。

それぞれをアップで撮影しました。西側(下の写真の左側)の親柱はひらがなで橋の名前が刻まれていますが、旧字体のひらがななのか、「じょうとうはし」というよりかは、「ぶやうとうはし」のようにも読めなくてもないです。

橋の名前は今も昔も漢字とひらがなで記載されることが常ですが、この城東橋のひらがなの最初だけは気になりました。「ふ」のようなものは、「じ」の変体仮名かなと思って調べてみたら、ビンゴでした。濁点のない「し」の変体仮名の「志」に濁点となるちょんちょんをつけたものです。

また最後のじょうとうはしの最後の「し」も変体仮名になっていますね。

当時の小学生では頭の「じ」の変体仮名はよめないような気がしますけどね。なぜ最初と最後のひらがなを変体仮名にしたのでしょうか?

とりわけ、最初の字は画数も多いし、その理由もわかりません。最後の「し」も変体仮名になってますけど、これはわかりますよね。

かつての橋は運河が埋め立てられたことで橋でなくなり道路となっています。この公園と公園の境、今は道路ですが、かつては橋だったわけです。

②~③の間:水路区切り

かつて水路だったところは今は細長い公園になっており、城見通に向かって公園を南下します。

遺構はないものかとかなり意識してきょろきょろして歩いていたところ、それらしいものを見つけました。

下の捨身、公園の境にあるコンクリート塀のようなものでした。埋められて何かの仕切り版のような溝のような跡を確認できます。

樋門のようなものがかつてこの場所にあったのでしょうか?いずにしろ、普通の公園には全く関係ないものがありますし、おそらく運河への流れ込み水路、もしくは樋門か何かの名残だと思います。

その他の当地写真

残念ながら遺構らしきものを探し出すことはできませんでしたが、当時の運河が今どのようになっているか、という観点での写真です。

④:「h」の字の交差点部

水路の交差点部です。鴫野西第四町会遊園の東側から公民館だと思われる鴫野会館です。橋らしき遺構は確認できませんでした。

東側へ分岐する水路は丁度これらの建屋あたりを流れており、城見通の一部も運河だったと思われます。現在の航空写真(左)と戦前の航空写真(右)を比較するとわかりやすいですね。

⑤~⑥:「h」の字の西側から南

hの字の頭の部分は櫻橋や城東橋を確認できました。そこから南下した④~⑥あたりも遺構がないか確認しましたが、残念ながらそれらしいものを確認することができまんでした。

⑦:南北に連なる道:

この運河にかかる橋で、唯一南北にかかる橋があった場所です。残念ながら遺構を確認することができませんでしたが、鴫野会館の東側に南向きの地蔵尊を確認できました。

A:運河東側の曲がり角部

「h」の字の東側の曲がり角部です。東西の運河がここでさらに南へ向かうのですが、ここも曲がり角のため、運河部が広くなっています。今の市営住宅建屋の前部分までが運河で、そこから南へ流れています。

今でいうと丁度この辺りが曲がり角だったと思われます。東西を跨ぐ運河は市営住宅敷地内の南側、そしてここから一気に南側に向けてまっすぐ運河のびます。(写真でいうと、左が南側となります)

⓼・⑨:「h」の字の南東部

今はグランドや集合住宅で、このあたりに架けられた橋や運河の遺構を残念ながら発見することはできませんでした。スーパー、薬局、運動施設、街路樹含めて今はとても住環境の良い地域になっていると思います。

この道もかつては運河でした。片側二車線の道路ですが、歩道も十分すぎる広さがあります。

南へ向けて真っすぐに道が続いています。

運河は、今の鴫野西公園くらいまで伸びていました。「h」の下のそれぞれの運河は地図を見る限りは、残念ながら第二寝屋川まで繋がってはいなかったようですね。

写真右側が鴫野西公園。運河南から北側を望む

最後に

大阪は江戸時代は世界に先駆けた米の先物市場をはじめ、西国を中心とした物資の集積都市であり、物流の大拠点でもあり、商業都市の代表でもありました。その後明治から昭和にかけて商業都市から工業都市へ変わっていき、その中で大阪域内はさらに水路や運河掘られました。戦後になってかつての農業用の井路(水路)や今回紹介した運河が埋め立てられ、道路へ変わっていく中で、わずかばかりであっても、当時の遺構となる親柱や水路の仕切りなどを写真撮影することができて嬉しかったです。

この界隈を自転車でうろつくことがきっかけで公園の形や道路、集合住宅の多さなどに興味を持ち、古地図を調べ始めたのがきっかけとはいえ、まだまだ私が認識できていない遺構なども残っているかもしれません。近くを通った際は、引き続き意識してキョロキョロしてみたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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