京橋駅北西側に現在は、NTT西日本の新京橋ビル・研修センター、そして大阪府立東高校があります。この地はかつて大阪大学工学部があって、京橋駅界隈は多くの学生が行き交う学生街だった時代もあったわけです。。大阪大学工学部を遡ると、大阪帝国大学工学部、大阪工業大学、大阪高等工業学校、大阪工業学校となります。京橋には1921年の大阪高等工業学校時代に移転してきて、1970年に吹田市へ移転するまで、その間約50年にわたって、今後の日本、関西、大阪の発展を担う多くの優秀な学生を輩出してきました。過去の地図や航空写真をもとにその沿革を振り返ってみたいと思います。
旧大阪工業学校からの沿革
年 | 場所 | イベント |
---|---|---|
1896年 | 大阪市北区 中之島5丁目 | 大阪工業学校創立 |
1901年 | ↑ | 大阪高等工業学校と改称 |
1921年~ 1923年 | 大阪市都島区 東野田町 | 網島校地(今の東野田町)に移転 |
1929年 | ↑ | 大阪工業大学に昇格 官立大学。同様な大学として、旅順工科大学、 東京工業大学(今も継続)がある。 |
1933年 | ↑ | 大阪帝国大学に吸収され工学部 |
1953年 | ↑ | 大学院工学研究科を設置 |
1970年 | 吹田市 山田丘 | 吹田キャンパスに移転 |
古地図からの当初の所在地(1911年)
当初は、今の住所でいうと大阪市北区中之島5丁目の学校がありました。下の左側の地図は1911年時(明治44年)、すでに大阪高等工業学校と改変された際の地図です。一方右側は現代の地図です。今は大阪市の科学館や美術館があるあたりでしょうか
左側地図の左下の赤い矩形内に、「高等工業学校」と右側から書かれています。最寄りには、大阪帝国大学医学部の前身だった、「大阪高等医学校」が「高等醫学校」と右側から書かれています。(青い矩形)
移転後の航空写真(1928年)
1921年から京橋への移転がはじまり、23年に移転が完了しました。非常に広い敷地となっています。北東側にグランドがあり、「ロ」の字のような校舎、西側にも多くの建物を確認できます。
古地図から見る京橋移転後(1932年)
下の地図は1932年(昭和7年)に発行された地図です。このころは、すでに大阪工業大学になっており、地図には「工業大学」と右から記述されています。
本ページの表題とは関係ありませんが、左側の古地図では、当時京阪本線に京橋駅がなく、東側には、「がもう」駅、西側には「のだばし」駅の表記があり、高架になる前の路線と今の路線との違いがわかります。これら京阪の駅や線路の変遷についても今後別ページにてまとめたいとも思っています。旧国鉄には片町線の始発駅、「かたまち」駅も確認できます。京橋駅と隣接しているかのような近さです。この敷地には、1913年に廃駅となった、網島駅(あみじま)周りの跡地も吸収した上でのこの広さのようです。
またまた脱線しますが、国鉄の「きょうばし」駅周辺には多くの工場マークを確認することができます。以下、過去ブログからの参考までに。
1942年時(昭和17年)の航空写真
1928年時の航空写真、1937年の地図の校舎と比較して、多くの校舎を確認でき、左上には中庭がある講堂らしき高い建物も確認できます。また北東にはグラウンドも確認することができます。グラウンドには野球のホーム、ベース、ピッチャープレート周りの土の色の違いを確認することができます。戦時下のころでは敵性スポーツということで禁止され、また学生もスポーツどころではなかったと思います。戦時下ではありましたが、このころはまだグランドは畑などには使っていなかったことが伺えます。
戦後の地図(1947年)
戦後の1947年(昭和22年)に発行された地図です。右側から、「阪大工学部」と文字がかかれているように見えます。かつてあった学舎、建屋が著しく減ってるように見えます。
戦後の航空写真(1945年-1950年)
戦後の航空写真です。45年から50年の間に撮影されたようですが、具体的な記述は確認できませんでした。(埼玉大学 今昔マップより)
野球グラウンドだった面影はすでになく、おそらく畑等に転用されていたのでしょうか。また左側の講堂から南側の建屋がなくなっているようにも見えます。空襲の影響だったのか、その理由まではまだ調べ切れていません。
航空写真(1961年-1964年)
1960年初頭の航空写真です。学舎が建てられており、また北東側のグラウンドに加えて、南西側にもグラウンドを確認できます。
地図(1969年時)
1969年(昭和44年)時の地図です。このころは、「阪大工学部」と読めます。この翌年の1970年に現在ある吹田市のキャンパスへ大阪大学工学部は移転します。
脱線ネタ:このころになると、京阪本線で、かつて「がもう」駅だったところ、京阪の「きょうばし」駅の表記になっており、左下は駅は、かつて「のだばし」と表記されていましたが、「けいはんかたまち」という表記になっています。
移転後の跡地
大阪大学工学部移転のあとはどのように変遷していったのでしょうか。過去の地図と航空写真から追いかけてみたいと思います。
1970年代後半
左の地図は1980年発行の地図です。跡地の左側は空白になっており、右側が学校マークになっています。この学校は、大阪市立東高校(21年度より、大阪府に移管され、府立高校になる見込み)であり、東区淡路町より1979年に移転していきます。
右の航空写真は1974年ー78年時に航空写真ですが、左側はまだ更地になっています。
1980年代前半
跡地の西側にも校舎やグラウンドがあります。西側校舎は1979年(昭和54年)にできた新校舎です。半分の右側はこれ以降、NTTに売却され、その後NTTの研修センターやNTTの新ビルができます。2021年にはNTTの本社がこの敷地内への移転が発表されています。
現在
左側の航空写真、右側が地図です。今の状態となります。
府立高校内ではかつて大学があったことを示す石碑があります。敷地内には部外者は無許可で入ることはできませんが、許可を頂いて取材させてもらった時の記事はこちらです。
航空写真で追う変遷
航空写真ベースでの変遷のまとめです。
写真アーカイブ
現在の大阪大学工学部のサイトに当時の写真が掲載されています。
参考リンク
学部長/研究科長挨拶・理念・組織・沿革 | 大阪大学工学部/大学院工学研究科 (osaka-u.ac.jp)
今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室) (ktgis.net)