大阪府大東市、寝屋川沿いにある明福寺最寄りに石碑を見つけました。何やら歴史的な偉業を讃えるかのような記念碑のようです。石碑に掘ってある字を手で読み取るかのごとく近づいて、色んな角度での読解を試みていたところ、最寄りのお宅から可愛い猫さんを抱えた女性が出てこられました。ひょっとして何かこの石碑の事で知っているかもしれない、と思いましてタイミングを見計らって話しかけてみました。すぐ最寄りの明福寺ご住職の奥様でした。すでにこの地に嫁がれてきて40年・50年は経っているかのようでしたが、丁寧にこの辺りのことをお話ししてくださいました。
近隣写真
まず、近隣の写真を整理していきます。在りし日の井路をせせらぎ水路として今に残している御領から(かつての)井路に沿って寝屋川目指して南下しました。暗渠化された井路は遊歩道になっていたり、まったく流れのないどぶ川のようになっているところもあり、寝屋川を目指してきたところ、石碑を発見!
石碑
外観はまるで矢じりのような石碑です。「おぬし、只者ではないな」と思いつつ、読解を試みます。「念紀」とまず冒頭にあります。古い時代の文字は右読みですから、「紀念」でしょうか。ただ、「 紀 」が記念のそれではなく、糸編がつく字です。はてはて。時期やら時間らしき記述があり、「樋門開*」とあります。
裏を回ってみると、一番古い年代で、安政五戌午*二月* とまでは読めました。安政五年っていつでしたでしょうか?調べてみると、西暦でいうところの1858年です。福沢諭吉大先生が蘭学塾を開いた年であり、井伊大老による安政の大獄もこの年からでした。ちなみに明治元年(慶応4年)は1868年からです。
さらにそこから30年後くらいの明治29年、その5年後の明治34年と3回に渡ってのイベントが刻まれています。
この「樋門」でピンとました。「ここが、寝屋川と井路を結んでいたところではなかろうか!?」と。
ちなみに、樋門の概要は以下の通りです。
河川から用水を取水するためや、排水路の水を河川へ排水するために、堤防を横断してつくられる暗渠(あんきょ)。樋管(ひかん)ともいう。用水樋門(用水樋管)と排水樋門(排水樋管)がある。樋門にはゲートが設置される。ゲートは平常時は開けられているが、洪水時には閉鎖して洪水が用水路、排水路に流入しないようにする。排水樋門のゲートを閉じているときに排水路の水を河川に排水するために、排水機場を設置することがある。
樋門とは – コトバンク (kotobank.jp)
何かの揚水設備・舟の通り道らしき遺構
この明福寺の北側になにやら揚水ポンプらしき設備があります。その向こうにはかつての井路だと思われる水路があります。私が撮影した道路(↑写真の左地図の水色の●部)と、この水路とは高低差が3mくらいはあるでしょうか、やや小高いところです。また、寝屋川までも同様に高低差があります。
この石碑とこれらの設備、そして高低差に何かの因果関係と理由があるのだろうかとスマホ片手で調べようとしていた矢先、猫を抱えたご婦人が門から出てこられました。私はいろいろ質問しました。
ヒアリングから得られた内容
スマホにメモをとりつつ、まず私自身怪しい輩ではないという説明をし(この時点でもう怪しいのですが)、ただ単に好奇心で石碑が気になった点、御領からの井路沿いにここまで来た、という点をお話ししたところ、郷土史に大変明るい方で、たくさん教えてくたさいました。
寝屋川から井路まで二艘通れる幅の堀割
当初は一艘だけの幅だったようですが、寝屋川・恩智川の合流地点していたこのあたりは水運が大活躍していたようで、明治時代に二艘通れるように拡幅したとのことでした。田園地域の水路で活躍する井路舟でしたので、おそらく幅は1mほど、長さも7,8mほどの舟がここを往来していたと思われます。井路舟については、最寄りの鴻池新田駅最寄りの鴻池新田会所と、大阪モノレール南摂津駅に井路舟が展示されています。
高低差を解決するための樋門・閘門設備
寝屋川は天井川であり、井路のある場所とは高低差があります。水を通すだけであれば、樋門で良いですが、舟を通すには閘門が必要となるでしょう。とりわけ低いところから高いところへ舟を通すにあたっては水門と水門とで区切った閘室と呼ばれる場所に舟を入れ、そこに水を注入し、高いゲート側の水門を開けることで舟を上下させます。大規模なものはパナマ運河をはじめ、アメリカ五大湖間の運河、オランダの観光用の水門などは有名どころでしょうか。
高低差ある寝屋川と井路間との往来にあたってはおそらく以下のような感じだったと思います。(水門の動きなどを一部省略しています。また舟は素材がなかったため、いらすとやさんのイカダを使っています。)
短い水平距離で、前後の大きな傾きなく、舟が高低差をクリアするにはこうした方法で舟を通していたのですね。
往路・復路で貢献
一度に大量に物資を運ぶ際、水運は非常に効率が良いです。今のように大型トラックもなければそのための道路もない時代、水運こそが一度に大量に物資を効率よく運ぶことができる物流手段でした。大阪市内へいく際を往路とするならば、往路にて農作物を大阪市内の市場に運び入れ、復路では大阪市内の各種料亭での生ごみや人糞などを運び入れ堆肥としていたようです。
(往路では食べるもの、復路では生ごみと排出されたものを同じ舟で運んでいなかったと、信じたいですが。。。)
水路拡幅時に土地を提供
明治時代の拡幅工事の際に、明福寺及びその向かいの住民は土地を提供したとのことです。その後、水路が埋め立てられ、道路になった時にかつて提供した部分の土地は返していただき、塀などをまた改めて設けたとのことです。
場所
具体的な住所でいうと、大阪府大東市太子田1-8-1の明福寺最寄りの交差点に石碑があり、かつて掘割があった場所はいまは道路になっています。
最寄りの公共交通機関だと、学研都市線の住道駅から徒歩14分(1.2km)ほどです。チャリだと5分くらいでしょうか。
明福寺
小さいお寺ですが、鎌倉時代頃から歴史ある由緒あるお寺とのことです。
古地図から
国土地理院が提供している地図を効率よく参照できる埼玉大学さんの「今昔マップ」のツールを使いつつ、各年代の地図、航空写真から、寝屋川から井路への水路の有無を調べてみました。
1911年(明治44年)の地図
今回のページで取り上げる明福寺は地図の真ん中から左側です。この地図からは寝屋川から閘門があったかどうかをすぐ確認できませんでしたが、この当時の地図で気づいた点が3つあります。
櫻宮線
そして真ん中は、今でいうところの学研都市線です。しかし、当時は、網島駅を経て、桜ノ宮駅まで路線がつながっていたため、櫻宮線と呼ばれていました。当初は京橋駅の西側にあった片町駅が始発駅で、片町線とも呼ばれていましたが、旅客輸送の主要路線が片町駅発のそれではなく、網島駅・桜ノ宮駅側へと切り替わっていったタイミングでもありました。
地名(角堂→住道)
住職の奥様に教えていただいたのですが、かつて住道は「角堂」という漢字でした。舟運盛んだったこのあたりを角堂浜と呼んでいた時代があったようです。一方で地図上には、「住道村(スミノドー)」という名前も確認できます。振り仮名がカタカナですが、「スミノドー」となっているのが面白いです。さらに面白いのは、駅名の縦書き部は、「すみのどふ」と記述されています。色んな読み方、読まれた方に対応する狙いだったのかもしれません。
寝屋川・恩智川合流部の中州
住道駅北側、北東側からの寝屋川、南東からの恩智川合流部には中州部分を確認できます。この中州部分を凝視すると建屋らしきものを確認できます。水運関連施設か何かだったのかもしれませんが、この中州400mか500mくらいに渡っており、かなり広かったものと思われます。もちろん今は存在しません。
この地図からは、井路らしき細い川は線で記述され、井路の脇の小さな道は破線で記述されているように見とれます。寝屋川に沿って北側にある道路は、2本の線で記述されています。
1932年(昭和7年)時の地図
1911年時の駅名の振り仮名として、「すみのどふ」と書かれたいましたが、この年代では「すみのだう」と書かれています。明福時の脇道から寝屋川までの水路も確認できません。一方で、井路については、ギザギザ線のような記述の仕方になっています。
1936年(昭和11年)時の航空写真
航空写真だと川、井路、道路が明白です。明福寺界隈をさらに拡大してみます。
明福寺の西側(左側)に寝屋川から入り込む水路を確認できます!元々の白黒写真からAIでカラー化したのが下の写真です。
寝屋川から入れる水路、そして閘門らしきものを確認できます。地図に注釈入れてみました。↓
おおお!住職の奥様が説明してくださった内容を地図でも確認できました!ここから井路舟もしくはその他小型舟が寝屋川からこのあたりの井路で出入りしていたのは間違いないかと思います。
1950年(昭和25年)時の航空写真
戦後はすでに埋め立てられているのか、寝屋川から井路への水路を確認できません。
1964年(昭和39年)時の航空写真
こちらも確認できませんでした。
1978年(昭和53年)時の航空写真
航空写真がカラー化以降も確認することはできませんでした。
最新の地図
航空写真
明福寺の北側交差点に石碑とかつての設備が残っています。
地図
寝屋川は天井川に近い状態だったことも聞いていたため、等高線地図でも調べてみました。
色別標高図(国土地理院から提供されている最新図)
明福寺の吹き出しの下側(南側)が寝屋川です。川を挟んで堤防のように若干土地が高くなっており、そこを境にまた土地が低くなっています。
陰影起伏図
白黒ベースの陰影図でも確認してみました。こちらのほうがわかりやすいです。たしかに寝屋川と明福寺の北側界隈の田園地帯に広がっている井路との間には高低差を確認することができます。この高低差を舟が短距離で往来するには、閘門ゲートが必要だったことがわかります。
最後に
全てを記述できませんでしたが、住職の奥様にはその他多くの事の郷土史について教えていただきました。大東市の郷土史についても関与されているらしく、市の施設や図書館などでより詳しい情報を知り得ることができるとも最後まで丁寧に教えていただきました。
せっかく最寄りまで来たのでお寺にもお参りしました。門の脇には、生きていく上で日々意識したい「開運福寿の秘伝」が書かれていました。
日々省みながら、身の程をわきまえ、謙虚でいることの難しさを痛感します。すぐドヤ顔したくなるのが性分の私などまだまだです。。。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今後、御領~住道界隈までの井路を整理したいと思います。暗渠化されて緑道となった場所、生きながらえている場所、かろうじて水が通っているところ、様々です。