前回に引き続き、大阪環状線の京橋駅から桜ノ宮駅方面に向かって線路沿いを歩き、これまた歴史を振り返ることができる遺構に加え、その遺構の名称から周辺地域の歴史の流れを振り返るため、古地図をもとに整理していきたいと思います。京橋駅から桜ノ宮駅の環状線下をくぐるアンダーパスで、自動車が通れない歩行者、自転車のみの専用となっていますが、かつてはここも水路であったことを伺えるものがありました。
トリガーとなった遺構
遺構の場所
大阪環状線、京橋駅沿いから桜ノ宮駅を目指して歩いていると、歩行者・自転車しか通過できない環状線のアンダーパスがあります。場所はここです。(赤枠部)
通常のGoogle地図では、よもやここが環状線の下を通り抜けることができる歩道かどうかもわからないくらい小さいですが、拡大するとたしかに小さな道を確認できます。Googleマップ上の地図では非常に細い線でひかれています。(実際の道幅はそこまで細くものではないのですがね)
京橋駅からの距離
京阪京橋駅からのGoogle先生の経路検索では徒歩9分700mの距離です。
架道橋を示す遺構
基本盛り土的な環状線(旧城東線)に対して、斜めにかかる架道橋を確認できます。
明らかに橋の構造です。前回紹介した、筋遺井路架道橋と比べて低いです。また、車両が通過できないよう、ポールが双方にたっていることが確認できます。
写真には、架道橋下にバイクが停車していますが、基本的には車両が通れない場所ですので、架道橋やアンダーパスによくある「高さ*m」という表記はありません。感覚的には2mくらいでしょうか。通路そのものは普通の自動車が通れないほどの幅ではありませんが、環状線両サイドとの道路とまっすぐもしくは直角となっていないためか、歩行者専用のアンダーパスとなっています。
低い高さの煉瓦と床石
煉瓦と床石は非常に低いです。おそらく環状線が城東線と呼ばれていたときの最初の橋梁部だったと思われす。もともとの高さは人も下を通れない高さであることに加えて、線路を斜めに跨ぐ部分がいわゆる架道橋の構造をしており、床石もあることから、間違いなくここはかつて何かの水路があったことが伺えます。
旧大阪鉄道によって、城東線の玉造駅-梅田駅(今の大阪駅)間が開業したのは、1895年(明治28年)10月17日のことです。この時はまだ単線でしたが、よくある話で複線を見込み、用地買収や橋梁などは、あらかじめ複線分を工事することがあったそうです。もちろん、橋渡しや枕木、レールなどについては、最初単線分だったとは思います。脱線しますが、「おおさか東線」の淀川を跨ぐ、赤川橋は貨物路線ではありました、この橋は複線分の幅を有しています。90年間1路線分は貨物列車が走り、もう1路線分が大阪市が借り上げ、淀川を跨ぐ歩道橋としても使っていたようです。歩行、自転車などの往来も多く、また眼前で貨物列車を見ることができたので、鉄道マニアの方からもよく訪れていたようです。2019年3月に、「おおさか東線」として旅客開通し、赤川橋は90年ぶりに複線の線路が機能したようです。
3路線分の3対(6個)ある床石
床石は3対(6個)確認できます。3路線分を予定していたのか、あるいは何かの退避用、停車場だったのかわかりません。いずにしろ、建設時は単線で開業しているとは、当時は何かしの計画・考えがあったのかもしれません。
古地図からの検証
各年代の古地図から、このあたりの状況を確認しています。ここが川、運河、水路のどれかであるという仮説ではありますが、おそらく井路川の類だったと考えています。国会図書館にある本や地図、国土地理院などに直接出向き、閲覧専用の地図などを確認すれば、明治初期の地図も確認できるかと思いますが、国会図書館デジタルアーカイブ含めて、インターネット上で調査できえた範囲内の古地図となります。
1904年(明治37年)4月出版の「新町名入大阪市街全圖」
公的な役所ではなく、民間会社・民間人が販売した古地図です。出版者は、「松村九兵衛」さんという方です。赤枠部が今回の場であると管理人は考えています。環状線より西側にやや広い池のようにになっていますが、ここを池といってよいかどうかは悩むところですし、井路川として通り抜けているようにも思えません。とてもこの地図だけでは判断できません。もちろん、今の橋梁部完成を城東線(今の環状線)1895年(明治28年)と仮定すると、そこから9年近くたっているので、その間に池や井路川が埋め立てられた可能性もあります。
民間が発行しているので、地形図そのものは最新のものであったかどうかを担保するのは難しいかもしれません。この地図の題名も、「新町名入大阪市街全圖」ということで、町名の更新に重きを置いたものであることがわかります。
1905年(明治38年)3月出版の「大阪市圖」
著者は大阪市となっており、出版社は「小林林之助」とあります。国土地理院が発行したものではりませんが、地域行政の大阪市発行ということで、上の地図と比べて出版は1年遅れとはいえ、「地図」としてはこちらのほうが信ぴょう性が高そうです。
ページの折り目との都合で城東線を跨ぐ部分が少しずれていますが、井路川が今の環状線を斜めにくぐり、その南側の網島(あみじま)駅北側の非常におおきな駅につながっています。
対象部をもう少し拡大したのがこちらです。
池と思われる等高線のようなエリアは、この網島駅(1898年開業-1913年廃駅)建設時の工事の際、もともと地盤の弱いエリアに対して、盛り土や造成にあたって、北側の土を掘り、それを使ったようです。掘られた場所は相対的に周辺部より低くなり、水がたまり、池になったものと思われます。もともとの池がより大きくなったかもしれませんし、池の周辺部の土を使った可能性もあります。
1911年(明治44年)発行の国土地理院地図
1911年の国土地理院地図と、現代の国土地理院地図との対比です。
中央の赤い丸部が今回対象としている環状線部分のアンダーパスです。右側の国土地理院地図にはGoogleマップのそれと比べてよりリアルな道幅や角度となっています。
一方左側の白黒の地図では、南東から北東へ走る城東線(今の環状線)の京橋駅~桜ノ宮間を確認でき、環状線の下を流れるような井路川を確認できます。
前回の筋遺井路川を確認した場所が青枠の場所です。地図の中には、それと同じような黒線(やや内部に白いところもみえます)の体でこの場所も描かれているので、やはりこの場所は川だったと考えても差し支えないかと思います。
前回の筋遺井路川の記事はこちらです。
架道橋プレートを確認
現在、この地に残っている架道橋に銘打たれた名前から確認してみます。上の段落でも説明しましたが、川・水路の類だと思いますが、現地に行ってみるとそれを確認できます。
1914年(大正3年)3月時:「ムグラ池架道橋」
1895年(明治28年)10月17日の城東線オープン時には煉瓦造りの橋台から、このころになると、その煉瓦を土台にコンクリートで高架化しています。架道橋の名前は、「ムグラ池架道橋」とはっきりと確認できますし、その時期は「大正3年3月」であることを確認できます。当時の同じタイミングでの古地図を確認できませんでしたが、やはり池につながる何かしの川や水路を跨ぐ架道橋であったことは間違いないかと思います。
2013年(平成25年)8月時:「葎池川架道橋」
両脇にある橋の土台部から文字通り橋としてつなぐ金属に塗装がされており、その塗装の橋梁名が、「葎池川架道橋」とあります。最近塗りなおしたものはわかりますが、おそらく過去から何度か架け直したのか、当時の名前がそのまま引き継がれているとしたら、やはりここは川であり、そして葎池につながる川、もしくは葎池から出た川なのでしょう。
ムグラ、葎って何でしょうか?
気になるのはムグラです。この「ムグラ」を漢字変換すると「葎」となります。
ムグラ(葎)は、密生し藪をつくる草。荒地や湿地などに雑草として生える。ウグラ、モグラとも。茎に刺が生えているものが多い(トゲナシムグラのような例外もある)。種子には鉤状の小刺があり、ひっつき虫となる。
ムグラ – Wikipedia
また、古語辞典では以下のような説明でした。
山野や道ばたに繁茂するつる草の総称。やえむぐら・かなむぐらなど。[季語] 夏。
葎の意味 – 古文辞書 – Weblio古語辞典
江戸末期では湿地帯だったこの地を新田開拓していくにあたって、池や井路川に回りに葎の類がたくさん繁茂していたのかもしれませんね。葎もたくさん種類があるようです。
最後に
今回は、ムグラ池がどの池なのか、という点を特定できるところまでは調査が及びませんでした。ただ、かつてこの地の水運に貢献し、そして埋め立てられ井路川の存在を確認できました。
普段乗る環状線、駅間の移動はあっという間ですが、地道に歩いてみると、かつて鉄道の変化(今回は煉瓦からコンクリートへ高架化された)、今は歩道のアンダーパスになっている場所がかつては水路であった点などを確認することができました。時代が変わり、周囲が市街化されても当時の名称がそのまま残っているのは後世をいきる私たちがその場所がかつてどのような場所だったを知ることがでいる大きな足跡と言えるでしょう。
特に今もコンクリート架道橋の土台となって転用されている煉瓦部の土台はもともと1895年(明治28年)時のものであり、2021年の今から遡ると、126年も前もの煉瓦となります。
今でも環状線を支えていることは考えると、当時設計や工事に携わった方々、この環状線を維持されているJR西日本の方々には感謝です。