大阪環状線の京橋駅と桜ノ宮駅間にて井路を跨ぐいくつかの鉄道遺産を紹介してきましたが、ここでは井路ではなく、人が往来する道路を跨ぐための鉄道橋を紹介します。アーチづくりなので見た目も美しいです。大川(旧淀川)を跨ぐために築堤が高くなっており、またすでに廃駅となっている網島駅(今の大阪府立東高校あたりに立地)から桜ノ宮駅まで繋ぐ旧桜ノ宮線と今の環状線が合流していた場所でもあります。役目を終えているとはいえ関西鉄道時代に建設された煉瓦の橋台などを確認できます。
場所
場所は、大阪環状線の桜ノ宮駅東側、徒歩2分くらいの距離です。地下鉄谷町線の都島駅からは徒歩10分くらいの場所にあります。★マークのところです。
古地図から
1910年(明治44年)の地図
まず最初に使う、国土地理院の1910年(明治44年)の地図と、最新の国土地理院の地図を重ねわせた地図が以下です。左端の「★今回対象」部が今回のブログ対象です。過去のブログで取り扱ってきた井路川を跨ぐ架道橋の記事がほどんどです。鉄道と交差する井路川系記事は「筋遺井戸架道橋」を皮切りに、「ムグラ池架道橋」、前回の京橋駅~桜ノ宮駅間の3本目の井路を跨ぐ架道橋として整理した「菜麦原架道橋」、4本目の井路を跨ぐ「長州架道橋」などですが、今回は井路を跨ぐ架道橋ではなく、当初より道路を跨ぐ橋だったと思われます。
桜ノ宮駅から東へ出ると、一気に南へ分岐して、「あみじま(網島)」という駅に向かう路線があります。これは1907年に官営鉄道化された旧関西鉄道の桜ノ宮線です。すでに京橋から桜ノ宮線が開通しており、網島駅はその役目が薄れており、停車場としてのポジションに留まり、その後廃駅となり、この路線もなくなってしまいます。網島駅については、こちらを参照ください。
1911年(明治45年):「實地踏測大阪市街全圖」より (實→実、圖→図)
「日本国際文化研究センター」が所蔵しているこちらの地図データでも確認してみます。これまでの調べてきた井路を跨ぐ架道橋では、水色の水路らしきものを確認できますが、今回は鉄道の下を抜ける道であるように読み取れます。
1935年(昭和10年)の地図
網島駅は1913年(大正3年)は桜ノ宮駅から放出駅までの路線廃止に伴い、廃駅となり、そこから23年経過した後には、分岐路線はもとより、駅もなくなっています。
1936年(昭和11年)時の航空写真
周囲は建屋でぎっしりです。
桜ノ宮駅や水道上陸橋北側には淀川貨物駅のターミナルや貨車なども確認できますね。淀川貨物駅については、こちらにまとめています。
最新の航空写真
国土地理院が提供している最新の航空写真です。環状線(当時は城東線)の南側にやや広い盛り土の築堤を確認できます。網島駅へ分岐する桜ノ宮線へのため、城東線と並走していたことが航空写真からも伝わってきます。
当地の写真
実際に現場で撮影してきた写真です。大川(旧淀川)を跨ぐにあたって、橋の高さを高く必要がありますが、関西鉄道が建設した煉瓦の橋台もその高さを確認できます。さらにその後に、コンクリートでかさ上げしています。
アーチ上になっている水道上陸橋は一番奥(北側)です。プレートには大正3年(1913年)とあります。
桜ノ宮線
南側が桜ノ宮線ですが、複線化を目論んだ橋台であることが確認できます。その証拠に橋台間を渡す際の床石(キーストーン)を2対確認できます。
手前側(北側)がかつての城東線の橋台だと思いますが、奥側(南側)との間に隙間があります。ここから旧桜ノ宮線は、大阪府立東高校のほうへ斜めへ曲がり、南に向かっていたと思います。
過去記事のおさらいになりますが、網島駅は、官営鉄道とは別に大阪から名古屋繋ぐ鉄道として、1898年(明治31年)11月18日にターミナル駅として開業。13年後の1901年(明治34年)12月21日に網島駅と桜ノ宮駅間をつなぐ線が開通します。
城東線(今の大阪環状線)
高さが異なる枕石がある橋台を確認でき、その奥(北側)が現在現役の大阪環状線(複線)です。
大阪鉄道が城東線を開通させたタイミングとして、1895年(明治28年) 5月28日 天王寺駅-玉造駅間開業、次いで半年後の10月17日に玉造駅-梅田駅間開業しています。この時開業した駅は、京橋駅・天満駅・梅田駅の三駅です。
そこから半年後の1896年(明治29年)4月27日に桜ノ宮駅が京橋駅と天満駅間に開業しています。網島駅から桜ノ宮駅へつながる桜ノ宮線は桜ノ宮駅が開業してから、関西鉄道によって5年後に接続されたものとなります。
綺麗なアーチ上の、水道上陸橋が架けられたタイミングが、大正3年(1913年)です。大正3年は城東線の複線化として、まず大阪駅~天満駅間が複線路線として開業しました。このアーチ型の橋はそのタイミングかつ継続した城東線の複線化を目論んだものとだと思います。
京橋側に近い井路川を跨ぐ橋台も基本的には複線化を見込んだ設計となっていました。
今回ご紹介者した地点もおそらくは複線化を見込んだ城東線の橋台が建設されたいたはずですが、現在確認できる城東線の路線の床石は単線分のみです。
1914年(大正3年) 鉄道省は城東線の高架化と電化を計画します。それを見越したかのように、もう一路線分は、北側の水道上陸橋として取り込まれたのかもしれませんね。
跡地
何の跡地かと言いますと、旧桜ノ宮線(網島駅に向かう路線)の跡地です。この場所は城東線(今の大阪環状線)と旧桜ノ宮線が並行していた部分です。下の図は、左が今の航空写真で、右が1911年時の地図です。
2路線あったということで、この部分の築堤は幅が広いです。この水道上陸橋の東側(京橋駅側)には、広々とした築堤が残っています。
今の航空写真を拡大してみました。水道上陸橋の西側は空き地状態になっているのに対して、左側は建屋があります。
青い枠で囲ったエリア、かつては旧桜ノ宮線が走っていたかと思いますが、水道上陸橋から西の旧桜ノ宮線跡が走っていた部分は幼稚園やマンションなどが経ち並んでいます。
最後に
1913年(大正3年)に、架けられた橋。その下には川ではなく、人が通るための橋だったのか、美しいアーチ橋です。100年以上も前に架けられたのに、その後のメンテナンス含めてしっかりと維持されていることもありますが、これもまた文化財だと思います。また、かつての城東線、旧桜ノ宮線の煉瓦造りの橋台も確認することができました。
煉瓦造りの橋台は鉄道こそ通していませんが、今でも築堤を支える一部だと考えると今も活躍する鉄道遺産の一つだと管理人は思っています。
大川の近くということもあり、これまでの井路を跨ぐ橋台と違って2m以上の高さがあり、それもまた美しいものです。残念だったのは、西側の煉瓦の橋台に白いペンキスプレーのような落書きです。この煉瓦は明治時代に積み上げられたもの、橋台の役目を終えているとはいえ、これもまた貴重な鉄道遺産・建築遺産だと思っています。何か憤ることがあったのか、単にふざけてやったのかわかりませんが、こうした落書きはやめてもらいたいなと切に感じます。
消せるものなら、こうした落書きを消したいですね。また落書きを落とすにあたってどのような方法があるのか調べてみたいと思います。すぐ浮かぶのはシンナーですが、落書きされているペイント溶剤もわからないので、なんとも言えません。ケルヒャーとかで落ちたら嬉しいです。
ただ、この橋台はJR西日本のものなので、勝手に掃除するわけにもいかず、どこぞに相談をしてみたいと思います。
進展あれば、また記事を作成したいと思います。
最後まで目を通していただき、ありがとうございました。