城東・淀川貨物線の軌跡

かつては城東貨物線と呼ばれ、現在は2019年に旅客線(おおさか東線)となっていますが、かつて「デルタ線」を形成し、京橋界隈を貨物列車が通っていた軌跡を歩いてみました。この路線は、貨物駅だった「淀川駅(1982年で廃駅)」までの引き込み路線として、「淀川貨物線」とも呼ばれていたようです。また、この淀川駅には京橋駅からも線が伸びていたということです。これらの沿革から歴史、そして古地図を使ってその変遷を整理したいと思います。またこの跡地を歩いてみたので、それら写真をもあわせて掲載します。

沿革

限りなく遡ると、1898年放出駅から網島駅(1913年に廃駅)までの鉄道路線開通から貨物線の歴史を説明すべきですが、ここでは貨物駅としての淀川駅ができたことによる貨物線をベースに沿革を整理していきます。

年月日変化点
1927年(昭和2年)12月10日淀川駅が開業。
淀川駅(貨物)から放出駅および京橋駅に至る貨物線が開通
1929年(昭和4年)3月15日吹田駅 – 淀川駅間が開通。
淀川駅 – 放出駅間との分岐点に巽信号場が開設
1931年(昭和6年)8月10日巽信号場に、吹田駅 – 放出駅間を結ぶ連絡線を設置し城東貨物線が開通
1932年(昭和7年)10月20日淀川車庫が開設
1936年(昭和11年)9月1日淀川車庫が淀川電車区に改称
1943年(昭和18年)10月1日城東貨物線 吹田駅 – 巽信号場間に都島信号場が開設
1961年(昭和36年)4月25日京橋駅 – 淀川駅間が廃止(淀川電車区への入出区線としては存続)
1982年(昭和57年)11月15日淀川貨物線としての放出駅 – 淀川駅間、淀川駅 – 吹田駅間が廃止
(淀川電車区への出入区線としては存続)。淀川駅が廃止されて淀川信号場になる
1984年(昭和59年)2月10日都島信号場が廃止
1985年(昭和60年)3月14日淀川電車区が移転。巽信号場・淀川信号場が廃止
Wikipedia 淀川線ページより

対象エリアの地図

貨物線は、京橋北側を横切っていました。デルタ線なので、吹田側と放出側からの路線がそれぞれ、淀川駅に向かって貨物線となります。面白いのは、現在の国道1号線も横切り、そして京橋街道(京橋駅北側の商店街)をも横切っていた点です。

現在の状況

Google地図の通常地図と航空写真ベースで確認してみたいと思います。以下地図の真ん中の緑色(現在は遊歩道)部分が廃線跡、その軌跡です。

Google mapより

無理やり線を引っ張ってみました。

Google mapに線を書き入れてみました。

航空写真だと、対象となているデルタ部は今このようになっています。

Google の航空マップより

次に埼玉大学さんのサイトで提供されている「今昔マップ」にて大阪東北部の1/25,000の地図や航空写真でも確認しました。

1928年時の航空写真

このころは、西側にあった淀川駅からここを通じて吹田方面に行く路線と、放出方面にいく路線が明確に分かれています。(吹田駅には翌年には1929年に開通とあります)。今は「おおさか東線」となっている部分もまだこのタイミングでは繋がっていません。

1928年時の大阪航空写真

縮尺を拡げ、デルタ線部から淀川貨物駅に至るまでが確認できる地図が以下です。京橋駅から淀川貨物駅までの引き込み線も確認できます。引き込み線の左側を走るのが今の大阪環状線で、次の駅は桜ノ宮駅ですね。

1930年時の地図

1/25,000サイズのこの地図は1932年(昭和7年)10月30日に発行されました。

右側の青の波線にはデルタ状態が確認でき、左上には貨物駅の駅である、淀川駅を確認できます。また京橋駅から桜ノ宮駅に向かう路線とさらに分岐して淀川駅に向かう連絡線(青色の矢印→)も確認できます。1932年になると、吹田方面の路線と放出方面の路線を真っすぐにつながる路線を確認できます。

1930年時のデルタ部の地図

1940年時の航空写真

左側写真が1945年-50年時の写真、右側が1942年時の写真です。中央部に東西へ走る今の国道一号線なる大きな道路を確認できますし、その道路を跨ぐかのような貨物船、そして綺麗なデルタ状になっている引き込み線を確認できます。

1940年代のデルタ部写真

1970年代の地図・写真

下は1979年時に地図です。まだはっきりと地図として路線図が残っています。

航空写真です。

1980年代の地図

1986年(昭和61)年7月30日に発行された地図では、1982年にすでに貨物線としの役目を終え、また貨物駅だった淀川駅もその役目を終え、淀川電車区となります。そして1985年にその電車区も移転し、淀川駅は跡地として空白状態になります。淀川駅貨物船は路線としての役目を終えたものの、一部まだレールが残っていたのか、ギザギザ線のようなものが地図内にあります。

写真ギャラリー

吹田方面から淀川線貨物を歩く

吹田方面(北側)から京橋方面へ分岐して旧淀川駅までの廃線跡は歩いてみました。今は遊歩道になっています。写真番号と写真向きを以下に示しています。

⓵-盛り土状態の路線から降りてくる部分です。
 ②-京橋方面に歩きます
③高架の京阪。その下をかつては貨物専用線が走っていたのですね。
④国道一号線を挟んで放出方面からの路線跡も確認できます。跡地は公園へ

現在の国道1号線かつては大阪市電が走っており、貨物線と市電が交差していた場所ようです。下の写真は1967年1月時の写真のようです。

思い出の城東貨物線写真集(番外編)
思い出の城東貨物線写真集-railway maniax- (xrea.com) のサイトより

⑤このあたりが、吹田からの路線、放出からの路線が合流していた地域だと思われます
⑥京阪高架をくぐり、遊歩道は続きます。

⑦-幹線道路を跨ぎます。
⑧京街道が見えてきました。ドーム状になっている部分は商店街です。
⑨商店街を超えてさらに北西へ
⑩-淀川線連絡船跡地のモニュメント

⑪さらに歩いていくと駐輪場が見えて、その向こうには広大な空き地が
⑫跡地が広がります

放出方面から貨物線跡を歩く

放出駅方面から、淀川貨物線跡を歩いてみた時の写真です。写真の番号と方角は以下の通りです。

⓵この踏切からうっすら左側への盛り土が見えます。
②-フェンスがありますが、おおさか東線へ向けた盛り土を確認できます。
③-緩やかな斜面の公園です。遊具もあります

④-盛り土部分が終わり公園が続きます。奥には一号線が見えます。

京橋駅方面から貨物線跡を見る

京橋駅(写真の下側)から北西側に伸びていた場所の跡地も写真をとってみました。よりわかりやすいようGoogleの航空写真をベースに写真撮影時の方角と番号をプロットしました。

⓵-橋脚が残っています。
②-すでに盛り土やそのほかの橋脚は撤去されてしまった可能性濃厚です。
③-かつでの電線柱(木製!)が残っています

④すでに役目を終えた左右の木製の柱。お互いで支えあっているかのような線が残ります。中央は現役の電線柱ですね

広大な淀川貨物路線の跡地

淀川貨物駅まで、手付かずの空き地があります。貨物路線ということで、幅も狭いものと思って当初思っていましたが、現地に行くと、かなり広い土地が広がっていることがわかります。

淀川連絡線跡地の地図
大阪市都島区:淀川連絡線跡地について (…>お知らせ・募集>区役所からのお知らせ) (osaka.lg.jp)

この広大な地域は、もともと大阪市が幹線道路を想定していましたが、その利用予定が無くなったことから、大阪市では、まちづくりの観点を踏まえた、売却や利活用について検討を進めているようです。これまで多くのワークショップが開かれており、今後逐次開発が進んでいく見込みです。

2001年3月時の状態

今でこそ、遊歩道として整備されていますが、遊歩道として整備される前は、草が生えている状態だったようです。片町線貨物支線(淀川貨物線) | 廃鉄の処女Ⅱ (ameblo.jp)さんのサイトに詳しく紹介されています。

片町線貨物支線(淀川貨物線) | 廃鉄の処女Ⅱ (ameblo.jp) サイトより
片町線貨物支線(淀川貨物線) | 廃鉄の処女Ⅱ (ameblo.jp) サイトより

参考リンク

廃線探索 城東貨物北線淀川貨物連絡線(歩鉄の達人) (hotetu.net)

淀川貨物線 – Wikipedia

大阪市都島区:淀川連絡線跡地について (…>お知らせ・募集>区役所からのお知らせ) (osaka.lg.jp)

片町線貨物支線(淀川貨物線) | 廃鉄の処女Ⅱ (ameblo.jp)

思い出の城東貨物線写真集-railway maniax- (xrea.com)

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