農業用水路としての井路川(いじがわ)を巡っていた井路舟がこちらに展示されていることを知り、見学してきました。大東市が管理しており、国の重要文化財となる建屋が多くありますが、私の目当てとしていた井路舟も二艘展示されていました。この地域はもともと低湿地帯でしたが、江戸時代に地域の関係者から幕府への陳情により、1704年から地域の治水・利水で大きな土地改良が行われ、多くの新田が生まれたということで今もその地名が残っています。新田展開にあたって、関西の豪商、鴻池家が携わりました。鴻池家、新田形成、この会所に関する詳細な点は、また別項にて触れたいと思います。
場所
JR学研都市線の鴻池新田最寄りです。
大阪駅、梅田界隈からのルート
最寄りJR駅は鴻池新田駅から徒歩3分です。南口から出て、左へ行くと、案内板があり、会所の南口まで回ったところに入り口があります。敷地そのものは、東西線・学研都市線に近いですが、入り口まではぐるっと回る必要があります。
環状線-京橋乗換-東西線・学研都市線:21分~25分:220円
京橋駅で乗り換える必要ルートです。環状線からの乗り換えは口は南側にあるため、大阪駅から来る場合は、より先頭側の車両に乗っていたほうが乗り換えが楽です。乗り換えのタイミングで多少の時間差がでます。
東西線・学研都市線:19分:220円
大阪駅から地下街を南にむけて歩き、東西線・学研都市線の駅である北新地駅から行く方法です。乗り換えなしでいける点が便利です。梅田界隈の私鉄・地下鉄からの乗り換えの際に、タイミングが許せばこちらのほうが楽かもしれません。
地下鉄谷町線南森町駅から東西線・学研都市線北野天満宮駅での乗り換え
地下鉄谷町線沿線からの場合は、南森町駅からJRの北野天満宮駅(4分ほど)で乗り換える方法もあります。
井路舟の展示
会所内はとても広いですが、北側のJR線路沿いに近い場所に展示されています。
説明書きのプレートには下記にように記述されています。
井戸川舟(いじがわぶね)
井戸川舟は、新田内に造られた井路を通り、穀物や荷物を運んでいた川舟です。
新田内でとれた米や綿などの作物は、この井戸川舟で会所まで運ばれていました。
江戸時代の大和川では、河内と大坂との間の荷物の運送に、「剣先船」が使われており、井戸川舟はこの剣先船の構造を受け継いだ小型船になっています。これらの舟は、戦後も使われていました。
手前に一艘、そして奥にも少し段を設けて展示があります。屋根があるため、野ざらしではないにしろ、風雨により多少の影響が受けそうです。写真だと伝わりにくいですが、水路を巡っていたので小型の舟かと思いきや、大阪モノレールの南摂津駅に展示されていた舟同様に、長さも7,8mくらいあります。幅は1mくらいでしょうか。南摂津駅の記事は以下です。
この建屋の北側の裏門に井路の舟着場跡があるからゆえに、その脇に展示しているものと思われます。
説明書きによると、米など新田内でとれた作物は、井路を通って会所北側に設けられた船着場から一度荷揚げされ、再び井路つたいに寝屋川に出て大阪市内に運ばれたようです。荷揚げされたお米は一旦は米蔵に入り、タイミングを見て出荷、販売されていったことでしょう。写真だとわかりにくいですが、階段上になっています。質問したところ、当初はもっと段数あったようですが、JR高架工事時の用地や道路となった北側道路との境界上、今のようになっているとのことでした。よって、この塀は近代になって作られたことがわかります。
会所内には用途に応じた4種類の蔵があります。大小様々な蔵ですが、規模の大きな米蔵と道具蔵の中は、新田展開にあたったこの地に歴史、鴻池家の紹介、農作業、稲作に必要な各種用具の実物展示と紹介があります。その中での鴻池家での紹介で家紋が紹介されていました。
右側の山上紋は鴻池池の商標なのですが、これは見たことがあります。そうです、南摂津駅の展示されている井路舟の船尾側に刻印されているそれと同じです。
新田展開にあたって、鴻池家は必要となる農機具のみならず、農業全般に関連するものまで準備し、それを貸していたわけで、おそらく運搬用にも使われたも舟もまた同様に鴻池池から貸与されたものであるのは想像に容易いです。
所内の写真
新田会所内の建屋、所内の展示物、庭などを一つ一つ紹介するのはまた別項にさせていただくとして、所内での写真を何点か紹介したいと思います。この会所は新田展開を行うにあたって、行政的な役割を果たしており、メインとなる「本屋」、「居宅」、畳部屋が多く連なる座敷部、庭園など見所満載です。
所内は、博物館のように展示と説明書きが充実しており、じっくみると2時間くらいは簡単に経過します。全ての建屋内が公開されているわけではありませんが、明治時代の後半には鴻池銀行が会所内に「鴻池新田出張所」を設けて使っていました。鴻池銀行は、第十三国立銀行を鴻池家が事業継承し、その後三和銀行、UFJ銀行を経て、現在の三菱東京UFJ銀行へ変遷しています。
古地図から
新田開発に先立って周辺の大和川付け替え工事から始まったのが、1704年(宝永元年)から200年以上経過した1911年(明治44年)の国土地理院地図を見てみました。
1911年(明治44年)の地図
黄色枠が鴻池新田会所部です。北側にはJR片町線(今の東西線・学研都市線)を確認でき、寝屋川や周辺河川などもあります。このころの地図では、黒線部が井路であることはこれまでの過去の井路検証でわかってきたこともあり、この明治44年時にも周辺に多くの田んぼ、そして井路があったことがわかります。
下の図の黄色部は会所、薄い青色部は井路です。会所の北側、片町線の間にも井路があり、さらに北側には濃い青色線部の寝屋川を確認できます。
以降は、航空写真のほうがわかりやすいので、航空写真で各年代を追ってみます。地図も航空写真も同縮尺ですので、上の古地図で黄色枠部分が鴻池新田会所ですので、航空写真も同位置がそれにあたります。各航空写真の中央やや左部分です。
1936年(昭和11年)年時の航空写真
1911年時と同じ縮尺です。この頃になっていると、寝屋川の川幅がより広くなっている点や、井路間に道路が増えていることがわかります。道路は未舗装でしょうから、白色でわかりやすいです。
水路を水色もしくは青色になることを期待して、AIで着色化してみましたが、パラメーターが異なるのか、そこまでなりませんでした。水路の深さや水の汚れ具合、水底の砂利等もありますから、必ずしても我々が普段ステレオで意識してしまう、水=水色というわけにはいきません。もともと無色透明で、光の屈折によって水色にみえるだけですからね。。。井路とは関係ありませんが、左側には、今の「大阪府立城東工科高等学校」を確認できます。1929年に、「大阪府立城東職工学校」として、1928年に「府立第四職工学校」として設立認可された後、改称されました。1929年時に機械科と電気科が設置されています。周辺は農村地域ですが、近代国家に向けた工業教育がこの地にもできたということですね。
脱線しますですが、この頃設立された大阪府立の職工学校は、今の大阪府立の工科高等学校です。一方、大阪市も同様に1907年に市立大阪工業学校(今の大阪市立都島工業高等学校)を開設しています。よって、大阪域内の「工業高校」は、大阪府が設立した”工科高等学校”と、大阪市が設立した”工業高等学校”があります。
1950年(昭和25年)時の航空写真
道路はふえており、一部の井路もまた道路になっているところを確認できますが、まだ残る井路を確認できています。
1964年(昭和39年)時の航空写真
鴻池新田会所の北東側は大きく開発されていますが、南側にはまだ井路がのこっています。
1978年(昭和53年)時の航空写真
農業用地はほぼ姿を消し、工場、宅地で占められていますが、井路も南側にまだ確認できます。このころから、急速な宅地化と工業化に伴う工場からの排水が井路に流れ込み、場所によっては悪臭などもはなつようになり、井路の立ち位置が苦しくなり、各地で埋め立てもしくは暗渠化が進みます。
放出-四条畷間が複線になったのが1969年(昭和44年)最寄りの鴻池新田駅界隈が高架化されたのが1970年ということで、1964年時に写真と比較して、この当時の片町線(学研都市線)の線路幅が太くなっているように思えます。この複線化時に会所の北側にあった井路は姿を消しています。
1983年(昭和58年)時の航空写真
会所南側を東西につながる井路をまだ確認できます。
1986年(昭和63年)時の航空写真
80年代でもまだ確認できます。
最新の航空写真
会所南側の井路は道路になっています。80年代後半から90年代ですので、暗渠化されて道路下には下水管が埋設されている可能性もあるでしょう。工場らしき建屋が減り、宅地化・集合住宅も多く確認できます。
最後に
水田への給水や水運のために農村地域では網目のように井路がはりめぐらされ、そこを農産物を積んだ井路舟を往来することは今の時代にかないませんが、鴻池新田会所内に展示されている井路舟をみて改めて農村地域では人が動くそれよりも、農作物や堆肥などの運搬に水運の寄与が高いため、まずは水路が優先だったことがわかります。モノの運搬については、水路(河川)、鉄道、そして道路と時代ともに最適な物流手段が変わっていきます。国際間の物流が盛んな現代においては、急ぎの貨物や軽くて単価の高いものは飛行機などで運ばれ、それ以外のものは今でも船が多く活用されていますね。日本は島国ですので、外国にモノを運ぶには船と飛行機の二択しかありませんが、陸地で国境がつながるユーラシア大陸やアフリカ諸国、南北アメリカでは、道路や鉄道も現役でしょう。水運はほとんどないでしょう。もしあるとしたら、観光用とくらいですね。アフリカ諸国では国を跨ぐ、河川や湖などはまだ現役かもしれません。
日本国内も戦後の復興、ベビーブームからの人口増、工業化・宅地化・モータリゼーション化によって、役割が薄れていった井路が姿を消し、残った井路も工業廃水や家庭排水を一手に受け、下水道が浸透するまでは生きながらえたものの、次第にその役割に終わりをつげ、道路となり暗渠化されていった時代の移り変わりを感じます。
かつては魚、エビなどもいて、地域のちびっこたちの遊び場の一つであり、そもそも親水という概念が出る前に生活に密着していた井路、地域によってはかろうじて残っている井路はあるものの、世の中のインフラの変化に応じてその役割や目的もまた変わっていくことを改めて感じました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。