はじめに、今回の記事に関連する情報について振り返りたいと思います。大阪は京橋駅南の高低差については、かつて流れていて今は廃川となって埋め立てられた鯰江川の堤防であり、かつその堤防は、大和街道(一部、古堤街道、野崎街道とも呼ばれます)である点について整理しました。前回のブログはこちらです。
そして、その京橋駅から鯰江川に沿って東に向かって伸びる街道についてもこちらも記事でも整理しました。
今回は、この鯰江川へ流れ込む支流について、現代地図や写真、そして古地図をベースに整理してみました。なぜ、こんな道になっているのか、なぜここに妙な形の公園があるのか、という理由がわかった点と、急に広くなった道路や狭い道などがわかります。
地図で確認
現代地図と古地図との比較をしてみたいと思います。下の左側の地図は明治41年(1908年)で、右が現代地図です。
ちょっとこの左側の地図ですと、どれが鯰江川でどれが本記事で扱う内容の川なのかがわかりにくいので、色をつけてみました。水色が鯰江川、そして青色が今回取り扱おうとしている井戸(農業用水路、小さな川)です。
鉄道ネタになってしまいますが、すでに左側の地図には、旧路線だった京阪本線があり、今の京阪京橋駅の前身となる蒲生駅の駅名も確認できます。また、今の学研都市線があり、環状線(かつては城東線と呼ばれていた)も確認できます。一番北側には、かつては貨物線の駅だった淀川駅へつながる鉄道も確認できます。
航空写真で確認
今度は、昭和11年(1936年)時の航空写真と現在の航空写真を比較してみました。
1936年時の写真は白黒なので、右のカラーと比べるとわかりにくいので、拡大凝視してみるとわかりやすいです。地図と同様に色を塗ってみたいと思います。
またまた脱線してしまいますが、左の航空写真には、今の都島区と城東区の区界になっている南から北へ流れる榎並川を確認できます。そしてその榎並川を跨いだ後、線形が改善され今の京阪守口市駅までかっ飛ばせるようになった新路線になった京阪本線、そして貨物線の淀川駅へ北側から、そして南側からも入退ができる貨物線がデルタ路線(△)になっていることが確認できます。一方、右側の現代の写真にはかつてのデルタ路線となっていた貨物線がなくなり、今は公園になっていることがわかります。
古地図だけに注釈入れてみるとこんな感じですかね。
写真で確認
実際に当地での写真を紹介していきます。時折、地図もまぜながら説明していきます。
鯰江川へ流れ込む井路の場所
支流の井戸から鯰江川へのどのように状態だったのか、そして今の地図、写真はどのようになっているかを追いかけてみたいと思います。
合流地点は、街道の下を抜けていたように思われます。いわゆる樋口のような状態でしょうか。
現地では大和街道から鯰江川(今は道路です)を見た道路というか、うねっているような道はこちらです。
細長い公園1
一方、北側を見てみましょう。ここには今セブイレブンがありますが、その裏と西側には窪地のように標高が2mほど低い土地になっています。
この写真を撮った大和街道は堤防のような堤のような状態であり、南側そして北側からも高い場所にあります。地図上ではまさにこの公園がかつて鯰江川を注いでいた井路であることが確認できますが、今は細長い公園になっています。
公園を西から東へ見た写真です。右手側の建物がセブイレブンであり、街道側です。実に細長い公園です。
こちらは逆に東側から西側へ撮影した写真です。
この公園にはお地蔵さんがあります。
広い道1
公園からさらに西側へ東側へ向かいます。ここの道、周辺道路と比較してやけに広いです。周辺の道路が車1台ようやくとれるどうかの道路なのに、ここだけ2.5車線くらいはあるでしょうか。
今回対象としている広い道とは下の地図の「広い道1」のエリアです。
古地図にもプロットしてみました。黄色い矩形エリアです。
ひとつ前のセクションで説明した細長い公園1とこの広い道1の間には橋がかかっていることが、1936年の航空写真で確認できます。
ここの道路とにかく広いです。当時の航空写真見ると、もともと井路があったことに加え、その脇に道もありました。今はそれらが全てになっているので広いわけです。
この写真の奥の左側に見える奇抜な建物は銭湯の「ユートピア白玉温泉」さんです。
細長い公園2
かつての井路だったところにまたまた細長い公園があります。ただし、井路埋め立てた道と並行するかのような公園ですので、鯰江川合流最寄りにある細長い公園よりもさらに細長いです。
広い道から一転して、細い道となりますが、この道をさらに進みます。目の前には2019年12月よりかつての貨物線が旅客化された「おおさか東線」の下をくぐるようなトンネルが見えます。
おおさか東線を潜る
もともとが井戸であり、それを埋め立てこともあり、ここの歩道は大人であっても身をかがめないと通過できません。
東側に近づくほど天井が近くなります。
西側の橋台には今の環状線でも残っている煉瓦タイプに枕石がついているタイプのものです。一方、東側はコンクリートのそれであり、単線時と複線時の違いでしょうか、あるいは補修したものでしょうか。
京橋周りにはこの手の橋台が多く残っています。
ちなみに、東側からこのトンネルはこんな感じに見えます。よもや人が通れる道とは気づきません。
ちなみにですが、大和街道は堤防道路のようなものなので、「おおさか東線」とは平面交差です。
下の写真の線路の下を丁度交差するかのように鯰江川へつながる井路があり、今はそこは道路なっています。
広い道2
おおさか東線をこえると北東方面へ曲がります。ここももともと井路の川幅が広かったのか、今の道路も周辺道路と比べて広い道幅です。地図の左下でおおさか東線を抜けて、そこから斜め右上に上がっていっているのが井路です。もちろん今は道路になっています。
右側の現代地図で三角地の空白のような場所、今は公園になっています。丁度桜満開の季節に撮影できました。左側の道路がかつての井路です。斜め上に伸びているそれです。
この広い道路沿いに、まるで水路が流れていたことを連想させるかのような名前の集合住宅がありました。
その名は、「水都宛」。昭和時代によくあった、トイレや台所などが共用の集合住宅です。
この水都宛に前の道もかなり広いのですが、ここかさらに北側に向かうと国道一号線が近くなります。再度古地図と航空写真をつきあわせてみたいと思います。
井路だと思しき細い道路ですが、国道一号までのびています。国道一号へ出ると城東警察署が、鯰江川への支流だったこの井路を追いかける探索も一旦ここまでとしたいと思います。
最後に
なぜ、こんなくねくね道なのか、なぜここだけ辺鄙な形の公園なのか、なぜここだけ道がやたらと広いのか、一旦何を考えているのか、と初めて何も考えずに通るとそう考えてしまう道や公園や街のつくり、そこには色んな歴史的背景があることがわかります。そうした背景を紐解くのが好きな方にとって何かのお役にたてば幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今の航空写真と当時の航空写真との対比