大阪市内で細長い公園、周辺と比べてやたらと幅員ある道路、もしくは歩道をみかけると非常に高い確率でそこがかつて川、もしくは水路、或いは鉄道だった可能性が高いです。大阪域内は水運や工業用・農業用にわたって豊臣秀吉公が統治した時代から天下泰平の江戸時代から、さらには明治時代にかけても多くの水路が開削されました。今回は大阪城東側、江戸時代ではなく明治時代以降の開削され、そして昭和1960年代以降に役目を終えて埋め立てられた千間川について整理したいと思います。
千間川の場所、由来について
大阪市森ノ宮を南北に流れる平野川を合流拠点とし、東側へ千間川(1.8キロ)続き、今の平野川放水路にまで至ります。実際にはそこからさらに東へ伸び、地下鉄中央線の深江橋付近まで続きます。
緑橋駅の真上、今里筋沿いにの交差点部にかつて千間川が流れていたことを示す石碑があります。
石碑にはこのように刻まれています。
千間川と緑橋
かつて ここには西の平野川と今の東大阪市との市界になる中高野街道を結ぶ用水路が流れ
その長さが千間(一八00メートル)あったところから千間川と呼ばれ 東成から市内へと小舟で行き交う人も多かった
千間川には二十あまりのゆかしい名の橋が架かっていたが 昭和四十二年ころから川を暗渠化する埋立が始まり 昭和四十六年に完了 現在は緑陰道路に生まれ変わった
緑橋は南側交差点名に当時の名残りを留め 心のふるさとになっている
平成八年十月 大阪市
石碑は道路に面しており、とても目立つ場所に設置されてます。
古地図・航空写真から
明治4年(1904年)時の地図
背景に現代の航空写真を入れています。この明治時代界隈には、千間川流域には、田畑が多く広がっており、工業用の水運というよりかは郊外から大阪中心地へ向けた農産物、或いは都心部からの農村部に向けた肥料などに水運が活用されたのでしょう。
この頃は、まだ第二寝屋川が開削されていませんね。
昭和4年(1929年)時の地図
1936年時の航空写真
大阪城側となる西側の平野川合流地区を拡大してみます。
戦前のタイミングでもすでにこの地域は建屋でびっしりです。今里筋と千間川の交差部分の橋がおそらく緑橋と呼ばれていた場所だと思われます。
石碑から東側の部分は川幅が大きく広がっているように感じます。冒頭の大阪市HPにて紹介されている千間川の写真は、この広い部分から大阪城方面に向けて撮影した写真でしょうね。
石碑からさらに東の拡大図は以下です。
広くなっていた川幅は少し細くなって平野川分水路に合流します。さらにその先にはゆるやかに南東方面に川が延びています。向かうところは今の地下鉄中央線の深江橋駅方面ですね。
千間川にかかる橋が、等間隔のように架かっていますね。
昭和22年(1947年)時の地図
この頃から人口がどんどん増加し、流域地域にもどんどん家がたっていくこととなります。
昭和20年-25年(1945年-1950年)時の航空写真
戦後の爪痕が残っていますが、千間川沿いの道路と川がわかりやすいです。
昭和36年-昭和39年(1961年-1964年)時の航空写真
1960年代前半にはまだ千間川は航空写真でも確認できます。まだ東西への大阪都市高速はできていません。
昭和50年-54年(1975年-1979年)時の航空写真
千間川の埋立が完了し、道路・歩道・公園になりました。都市高速も確認できますね。
現地の写真
すでに埋め立てられた現在、かつての千間川沿いを散策してみました。平野川合流地点から南西方面へ細長い公園が続きます。合流部は三角公園のようになっています。以下Google 先生の地図の緑色部はそのまま千間川だったものと思われます。
この先の南北に跨る道路、千間川最下流で平野川と合流する直前に橋がかかっていた場所です。
橋を越えて道路沿いの細長い公園へ入ります。
南西沿いに細長い公園を歩きます。
この細長い区間は公園というよりも緑道に近いです。
川があったということは雨天増水時に川沿いの住宅へ水があふれ出ないよう、多少なりとも土手のように川沿いを高く土を盛っていたのでは思わせる遺構らしきものがありました。この緑道の南側は若干土地が低いのか、緑道にあがるまで5段くらいの階段がありました。
緑道の南側は若干勾配が低くなっています。
南西へ向かって伸びる細長い公園を抜けると、今度は東方面へ真っすぐ向かいます。
車道は片側1車線、合計2車線ですが、両サイドの歩道がこれまたとても広く、それぞれ車道1車線分くらいの広さです。
本当に広い幅です。
今里筋を越えて、さらに東へ向かいます。
石碑は車道側を向いています。この奥がまたずっと千間川だった部分です。両サイドの歩道は十分すぎる広さがあります。
道中、かつて川だったものがわかる遺構、例えばかつて橋がかかっていた際の親柱等も探していましたが、なかなか見つけることができませんでしたがし、鴫野西の運河跡調査の時に見つけたように、千間川から分岐する小さな井路(農業用の水路)のような仕切りがあったと思われる樋門跡らしき遺構を確認することができました。
わかるでしょうか、ちょっとわかりにくいですが、自転車の前輪の先に塀のような部分、そこに溝があります。ここにおそらく板(木もしくは鉄)を通し、樋門の上げ下げをしていたのではないかと思います。
さて、両サイドの広い歩道部が終わり、南側部には細長い公園が続くようになります。この公園が「千間川みどり公園」です。こちらの公園は種々の遊具もり、車道ともしっかりと区分けされているため、小さなお子様でも安心して遊べる公園です。
公園入口です。木々や植物が生い茂り、公園定番の遊具も複数あります。この公園あたりから川幅が広くなっていた千間川が少し狭くなり、今の公園部を流れていたと思われます。
道路との間はしっかり柵があります。
そろそろ平野川分水路です。園内には照明もあり、夜でも真っ暗になりません。
この千間川の公園、「城東区50年のあゆみ」という区制50周年を記念して監修された本には以下のような写真も含めて紹介されていましたが、2022年現在では小便小僧のようなきれいな親水設備を確認することができませんでした。(私が見逃しているのかもしれませんが)
分水路手前には地蔵尊が園内に鎮座しています。
公園はここまでです。この先が平野川分水路です。
この先、平野川分水路からさらに南東方面へ緑道が延び、「深江橋」方面に向かっていることが今の地図でもわかります。
1936年時の航空写真と今の地図を並べてみると、地図上の緑道もおそらく川を埋め立てたものであることがわかります。そして今の交差点名・地下鉄駅名の深江橋もかつてこの地を流れていた橋からきていることは想像に容易いですね。
最後に
役目を終えたインフラは姿・形を変えて後の世になっても、貢献しています。歩道が広い道は安心して歩くことができますし、木々が豊かな公園は歩くだけでもプチ森林浴をしたような気持ちになりますし、小さなお子さんの遊び場にもなります。
かつてのどかな田園地帯が多く広がっていた際は、魚やエビをとって遊ぶ子供達もいたと記録にありますが、戦後の急速な復興と人口増加に伴って、当時まだ未整備だった生活排水が多く川に注がれるようになり、水運としても機能しなくなった川は埋め立てられたり、暗渠化されてしまうのは、この千間川に限った話ではないです。
大阪市がかつてのこの地を流れていた千間川を紹介する石碑を整備し、公園の名前にかつての川の名前を用いた公園を整えており、川にちなんで不思議に思って調べた方が当ページを参考にして過去を振り返る一助になれば嬉しいです。