京橋駅に1トン爆弾が落ちた日

1945年8月14日、京橋駅に1トン爆弾が落ちました。日本が終戦日としているのが8月15日ですので、その1日前です。当時の京橋駅は、片町線(今の学研都市線)と城東線(今の大阪環状線)が交差している駅で、その日も多くの方が最寄りの工場への出勤等でたくさんの人が集まっていた時でした。最寄りの陸軍工場を狙った爆弾がそれて京橋駅に落下して、多くの方がなくなりました。京橋駅南口には毎年、その慰霊祭が行われています。

空襲のタイミング

今で定義するところの第8回大阪大空襲、1945年8月14日です。大阪への空襲は1944年12月から数えて、累計で約50回あり、府内で約15,000人の命が犠牲になりました。それに加えて失った家屋、各種インフラ、施設などおびただしい被害がありました。約50回の空襲の中で、「超空の要塞」と呼ばれた爆撃機であるB29が100機以上で飛来した8回が「大空襲」といわれます。

空襲から10か月跡の京橋駅(後ろ側)-Wikipedia public domain

第8回大空襲

約150機のB29が1トン爆弾を伴って、大阪に飛来しました。700個の1トン爆弾が落とされたと記録されています。B29の爆弾搭載量は最大で約9トン。もし1トン爆弾を全ての爆弾倉に積んでくると、1機あたり9個です。もちろん、爆弾倉全てに1トン爆弾積んでいたかどうかわかりませんが、150機も飛来すれば、700個もの1トン爆弾は十分積載可能でしょう。(1機で9個の1トン爆弾搭載していると仮定し、150機だと1,350個もの1トン爆弾量となります。)

アジア最大規模の軍事工場である大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていましたが、今回の空襲で造兵廠は壊滅となりました。

しかし、目標からそれる爆弾というのもあったわけで、寝屋川を挟んで京橋駅周り4個もの1トン爆弾が落下しました。そのうちの1つ片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けました。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 – 600名以上とされています。(遺体の損傷が激しく正確な犠牲者数は不明)

頑丈な構造物を破壊するための1トン爆弾、その爆弾影響たるや、想像もしたくもないです。

ターゲットにされた大阪城東側の軍需工場に関してはこちらにも整理しています。

第8回空襲時にその他喪失したもの

国宝ともいえる、大阪城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失しました。その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出ました。城内には博物展示されていたものもありましたが、焼失しています。その中には鯰江川沿いの三郷橋で発掘された丸木舟も含まれます。

慰霊碑

脇にある説明板の記述内容は以下の通りです。

大阪大空襲 京橋爆撃被災者慰霊碑

太平洋戦争終戦前日の昭和二十年八月十四日、大阪は最後 の大空襲を受けた。 B2戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸 軍造兵廠に対し集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の一ト ン爆弾が数発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避 難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を 突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き 地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は 二百十名であるが、 実際には5百名とも6百名とも言われている。

当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏 が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和二十 二年(1947年)八月十四日、自費で建立された慰霊碑である。

経塔

戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年八月に慰霊碑の前で妙見閣寺によって行われているが、三十七回忌を機に写経に よる供養をと、遺族及び、当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立された納経塔である。

釈迦牟尼仏像と平和記念像

この惨事を後世に伝えるため、昭和五十九年に釈迦牟尼仏像と平和祈念像が建立された。 これは大阪城東ライオンズクラブが結成二十周年事業として寄贈したものである。

空襲被害者慰霊祭世話人会
大阪市城東区役所
JR西日本京橋駅

場所

多くの人が乗り換えで行き交う北側の乗り換え口と打って変わって、JR京橋駅の南口です。ここで降りる人は、本当にわずかです。本当にJR京橋駅かと思うくらいの閑散さです。このJR京橋駅を降りて西側、環状線高架の脇に観音様がいます。

京橋駅南口。実は駅の出口が円弧のようなデザインになっています。駅を出て西へ出ると・・・
観音様、説明板、お供え花、千羽鶴などを確認できます。

過去の地図・航空写真

1911年(明治44年)の地図

大阪に限らず、お城の周りはお役所機関をはじめ、軍の司令部などが多くありした。大阪の場合は、それに加えて城の東側の広大な軍事工場がありました。いわゆるお上が経営する工場で、その規模は当時のアジアでは最大規模でした。さらに、その周辺には多くの工場があります。

1932年(昭和7年)時の地図

大阪城の東と北東部(今の大阪ビジネスパーク)には、大阪陸軍造兵廠の工場が広がっています。京橋駅周りに多くの工場を確認できます。京橋駅界隈の工場の変遷については以前のブログでも調べたことがあります。

大阪城の南側の歩兵第8連隊、37連隊の連隊部があったことも読み取れますね。

1936年(昭和11年)時の航空写真

国土地理院から公開されている1936年時の航空写真には、軍需施設(軍需工場、軍事施設、重要インフラ 例:浄水場)などが黒く塗りつぶされています。大坂城の東、北東側はまさに、 大阪陸軍造兵廠ですね。航空写真だと地図ではわかりにくかった情報も把握できます。京橋駅界隈には、現代ではすでに埋め立てられてしまいましたが、東から西へ流れる鯰江川も確認できます。

1950年(昭和25年)時の航空写真

戦後の1945年-50年に撮影された航空写真です。灰燼に帰している地域もありますが、戦後すぐにバラックらしき建屋をたてような地域もあります。

京橋駅界隈を拡大してみました。

最新の航空写真

寝屋川と第二寝屋川に囲まれた大阪城北東エリアは、大阪ビジネスパークとなり、多くの高層ビルが立ち並ぶエリアとなりました。

最後

京橋は、東西南北色んな歴史を抱えている地域です。平日・土日時間問わず多くの人が行き交うよく知れ渡っている京橋駅界隈とはうってかわって、南口は目の前に川があることもありますが、寂しい限りです。しかし、平和への願いを込めた歴史の足跡はしっかりと残っています。

東西を走る学研都市線(片町線)を跨いで京橋駅最寄りの高層集合住宅である、リバーカントリーガーデン京橋を望みます。

平和である日々を感謝しつつ、なくなれた方々のご冥福を願います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

京橋駅南口の慰霊碑
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