西三荘駅周辺を通りがかった際に、気になる道を発見しました。京阪本線の西三荘駅から南に向かう道が、まるで蛇のように蛇行しているのです。現代の都市計画では珍しいこの曲線的な道筋に興味を持ち、古い航空写真と現在の地図を比較調査してみることにしました。
西三荘駅の立地と歴史的背景

まず西三荘駅について整理してみましょう。西三荘駅は1975年(昭和50年)3月23日に開業した比較的新しい駅で、駅下を流れる西三荘川(現在は暗渠)を駅名に採用したと記録されています。この駅は守口市と門真市の境界にまたがって立地しており、当駅が開設されるまで、当駅の京都寄り約200m、現在の高架下商業施設「エル西三荘」の4-8区画付近に門真駅があったという経緯があります。
興味深いのは、新駅の名称案には当初「西門真駅」と「東守口駅」があったものの、結局は地下を流れる西三荘川から名前を取ったということです。これは地域の水系がいかに重要な役割を果たしていたかを物語っています。
古い航空写真が語るもの
昭和17年(1942年)の航空写真を現在の地図と比較すると、驚くべき事実が浮かび上がります。現在蛇行している道路の部分には、明らかに自然の水路が存在していたことがわかります。この水路は西三荘駅の南から始まり、くねくねと曲がりながら南東に向かい、最終的に鶴見緑地を抜けて寝屋川まで続いていました。

当時のこの地域は、昔は用水路として田畑の灌漑用水はもちろん、飲料水としても人々の生活を支えてきましたという記録にあるように、一面の田園地帯だったのです。航空写真を見ると、整然と区画された水田や畑地が広がり、その間を縫うように水路が流れている様子を確認できます。
南東側へ分岐する水路と、鶴見緑地公園方面へまっすぐ伸びる水路を確認できます。

鶴見緑地公園方面へまっすぐ伸びている水路には橋を確認することもできます

利水と水運の歴史
門真・守口地域の水系について調べてみると、この地域が水郷地帯として栄えていた歴史が見えてきます。江戸時代後期には菜種や木綿の栽培、蓮根栽培が活発化したという記録があり、特に蓮根栽培では「河内レンコン」として全国にその名が知られるまでになりました。
昭和30年代頃は、木舟が往来していたり、魚釣りをしている人がいたり、飼育しているアヒルを泳がせているご家庭もあったそうですという証言からも、この水路が単なる農業用水ではなく、地域住民の生活に深く根ざした存在だったことがわかります。
都市化による水路の変遷
この地域の大きな転換点は、1910年(明治43年)の京阪電車の開通でした。電車の開通により交通の便が飛躍的に向上し、工場誘致など産業都市としての発展が本格化しました。さらに1933年(昭和8年)には松下電器産業(現パナソニック)が門真に進出し、両市は企業城下町として急速に発展を遂げることになります。
戦後の高度経済成長期に入ると、この変化はさらに加速しました。田園地帯は急速に宅地化が進み、かつての水郷風景は一変していきました。この過程で、農業用水や生活用水としての役割を果たしていた水路は、次第にその機能を終えていくことになりました。
しかし、堤防がない状態であったため、川に落ちる事故が起きたり、生活用水が流れ込むこで川が汚れ、夏には大量のユスリカが発生し、そのユスリカを餌としてコウモリも多く飛ぶようになったことで、住民の皆さんがその解決に向けて運動されたそうですという状況を受けて、最終的に水路は暗渠化され、現在の歩道や道路として整備されることになりました。
西三荘駅すぐ南にある橋の跡を示すモニュメント

西三荘駅を背にして、ゆるやかに曲がる道を南へ向かって歩くと、かつて南北に流れていた水路(今の道路沿い)に対して、東西をつなぐ道として、水路を跨ぐ橋があったことが地図からもうかがえます。今その場所にはかつてここには水路があり、橋がかかっていたことを示すモニュメントを見つけることができました。
「橋本橋」という橋がかかっていたことが伺えます。
現代に蘇る水路跡の公園
西三荘駅南の蛇行する道を抜けると、そこには鶴見緑地まで一直線に伸びる美しい公園が姿を現します。この公園は、かつての水路跡を現代的な憩いの場として再整備したものです。現在は、水路が蓋がけされて、花と緑がいっぱいの快適なウォーキングコースに生まれ変わっていますという状況は、地域住民の長年の努力の結果であり、歴史を後世に伝える工夫と考えられます。

公園の随所には、かつての橋の位置を示すモニュメントが配置されており、当時の生活の様子を想像することができます。これらの遺構は単なる装飾品ではなく、この地域の水郷文化を現代に伝える貴重な教材として機能しています。工事が完了した当時は地域でパレードを行うなど、皆さん大変喜ばれたそうですという記録からも、住民の方々がこの変化をいかに歓迎したかがうかがえます。
公園沿いの地上に残るかつての痕跡

現在でも西三荘駅から南に向かって歩くと、かつての水路の存在を物語る貴重な遺構を実際に見ることができます。蛇行する道を抜けて鶴見緑地方面に向かうと、そこには一直線に伸びる美しい公園が現れます。この公園こそが、かつての水路跡を整備したものなのです。

特に印象的なのは、かつて水路を跨いでいた橋の痕跡です。「菊水橋」と刻まれた石碑や親柱が当時の位置に保存されており、木製の欄干を模したモニュメントも設置されています。これらの遺構は、単なる装飾ではなく、この場所に確かに橋が架かっていた歴史的事実を示す貴重な証拠です。

また、「大宮橋」の親柱も美しい花壇の中央に保存されており、現在では紫のツツジが咲く憩いの場となっています。背景には現代的な保育園の建物が見えますが、この対比こそが時代の変遷を象徴的に表現していると感じています。
現代の都市計画では直線的な道路が好まれる傾向にありますが、この蛇行する道路は、先人たちが自然と共存しながら生活していた証拠とも言えるでしょう。水の流れに逆らわず、地形を活かした農業や水運を営んでいた時代の知恵が、現在の道路にも息づいているのです。
鶴見緑地も縦断してことが戦後の航空写真との対比でもわかります。水色線で塗ってしまいましたが、左の地図上では、水色の破線があり、地下には水路があるように思われます。

鶴見緑地をさらに南下すると、寝屋川へつながっています。地上では道路になっていますが暗渠化(地面下の川)され、地下を流れる水が寝屋川に流れているのがわかります。

水郷文化の記憶
このような水路の存在は、門真・守口地域が「水郷」として栄えていた証拠です。大阪平野の低湿地帯という地理的特性を活かし、人々は水との共生を図りながら豊かな文化を築いてきました。
河内蓮根の栽培技術や、水路を利用した物流システムなど、この地域独特の文化的背景は、現代の都市化の波に押し流されがちですが、蛇行する道路という形で、今もその記憶を伝えているのだと思っています。
実は、この西三荘周辺の水路だけでなく、大阪の都市部には数多くの埋め立てられた水路や運河の痕跡が残っています。当ブログでも、これまでにいくつかの水路跡を調査してきました。
関連記事:
- 榎並川は都島区・城東区の南側の区境
- 京橋駅東の鯰江川と大和街道
- 鯰江川へ合流する井路
- 環状線:京橋から桜ノ宮間の井路川4本目
- 「h」型の運河の跡を探る
- せせらぎ水路となった御領の井路
- 京阪本線旧線の旧野江駅界隈の今昔
これらの記事では、かつて大阪の街中を縦横に流れていた井路川や運河の痕跡を、古い地図や航空写真と現在の状況を比較しながら調査しています。どの水路も、農業や物流、そして人々の生活に深く根ざした存在だったことがわかります。
おわりに
自転車でたまたま通りがかった蛇行する道が、これほど深い歴史的背景を持っていたとは驚きでした。そして実際にその場所を歩いてみると、箭京橋や大宮橋の親柱など、かつての水路時代を偲ばせる遺構が大切に保存されていることに感動を覚えました。
現代の便利な生活の背後には、先人たちが自然と向き合いながら築き上げてきた知恵と工夫が隠されています。かつて木舟が行き交い、人々が水とともに暮らしていた時代の記憶が、今もこれらのモニュメントや公園の形で私たちに語りかけています。
このような歴史の痕跡を辿ることで、私たちは改めて地域の成り立ちや、人々の営みの連続性について考える機会を得ることができると考えています。西三荘駅から南へ続く蛇行する道と、その先に広がる一直線の公園は、単なる交通路や憩いの場ではなく、この地域の水郷文化を現代に伝える貴重な歴史遺産なのだと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。