大喜橋:大阪電気軌道四條畷線の遺構が語る鉄道計画の夢と挫折

はじめに

自転車で大阪市城東区の運河沿いを走っていた時のことです。城北運河に架かる「大喜橋」という橋を渡った際、何となく違和感を覚えました。橋自体はそれほど大きくないものの、歩道部が別になっており、1.5車線ほどです。通常なら一体的に設計されるはずの車道と歩道が、なぜか分離されているような構造になっています。そして何より、橋の勾配が鉄道を想定したかのようになだらかなのです。

調べてみると、この大喜橋にはまさに鉄道にまつわる深い歴史がありました。近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)が計画していた「四條畷線」という幻の鉄道路線の遺構だったのです。

今回は、この大喜橋を通じて、大正から昭和初期にかけて計画されながらも実現しなかった鉄道計画の興味深い歴史を追ってみたいと思います。

大喜橋とは何か

大喜橋(だいきばし)は、大阪市城東区今福地区を流れる城北運河(城北川)に架かる橋です。現在は地域の生活道路として、小中学生の通学路や住民の日常の移動に使われています。橋の名前の由来となった「だいき」とは、大阪電気軌道の略称である「大軌」から来ています。

この橋脚は完成後、とりあえず仮設の人道橋となったが、四条畷線建設中止後の1960年(昭和35年)に道路橋となり、「大喜橋」(だいきばし)の名がついた。

興味深いのは、この橋が最初から道路用として計画されたものではないということです。1929年(昭和4年)頃に鉄道用の橋脚として建設され、鉄道が開通するまでの仮設として人道橋になり、そして30年以上経った後に正式な道路橋として生まれ変わったという複雑な経緯があります。

大阪電気軌道四條畷線計画の全貌

大軌の拡張戦略

大阪電気軌道は1914年(大正3年)に現在の近鉄奈良線を開業させた後、南東方面への路線拡大を積極的に進めていました。しかし同時に、当時片町線しか路線が存在しなかった北河内地域への進出も検討していたのです。

1922年(大正11年)6月に天満橋筋四丁目 – 四条村寺川 – 鷲尾(今の石切駅近く)間の敷設特許を収得した

この四條畷線は、生駒山麓の鷲尾駅(後の孔舎衛坂駅)で奈良線と分岐し、住道・鶴見・蒲生などの街を貫いて大阪市内の天満橋方面を目指す計画でした。もし実現していれば、近鉄奈良から梅田方面への直通ルートとなり、現在の近鉄特急「あをによし」のような観光特急も沿線を駆け抜けていたかもしれません。

路線の詳細ルート

計画されていた四條畷線のルートは以下の通りです:

桜ノ宮(当初計画では天満橋筋四丁目) – 蒲生 – 今福 – 下ノ辻 – 横堤 – 諸口 – 安田 – 大東新田 – 赤井 – 住道 – 深野 – 寺川 – 善根寺 – 石切本町 – 額田

このルートを見ると、現在の阪奈道路とほぼ同じ経路を辿っていることがわかります。これは偶然ではありません。

建設の着工と進捗

1928年の本格着工

そして7月に施行認可を得て、下ノ辻(今の鶴見区今福鶴見辺り) – 寺川間7.8kmを着工した。翌年12月には蒲生 – 下ノ辻間1.3kmの免許も収得し、城北運河(鶴見運河)を渡る橋脚の下部工事も行った。

大軌は1928年(昭和3年)から本格的な工事に着手します。最初に着工されたのは下ノ辻から寺川間の約7.8kmの区間でした。翌1929年には蒲生から下ノ辻間の工事にも着手し、城北運河に大喜橋の橋脚が建設されたのです。

路盤はほぼ完成

この時、蒲生 – 寺川間9.1kmについての路盤はほぼ完成していた。

驚くべきことに、大軌は蒲生から寺川間の約9kmについて、路盤をほぼ完成させるまで工事を進めていました。大喜橋(計画当時は「城北運河橋」)を含む約9kmにわたる用地の買収・路盤の建設もこの際に行われ、この9km区間については、翌年の1929(昭和4)年には当時の営業報告書に「おおむね完成」と記載されるまでに工事が済んでしまったのです。

なぜ計画は頓挫したのか

技術的な困難

四條畷線には複数の技術的な課題がありました。まず奈良線との分岐が予定されていた孔舎衛坂駅は生駒山麓の険しい山の中にあります。ここに分岐を作って山麓を降りるという技術的な難しさもあり、のちに分岐点は平地に近い額田駅に変更されたものの、奈良線からの分岐は最後まで着手されませんでした。

競合路線の影響

四條畷線の建設が急がれるようになったのは、実は他社との競争があったためです。大軌としては「将来的に着手するけど急がない」路線でしたが、競合他社の動向により建設を急ぐ必要が生じたのです。しかし皮肉なことに、この競争が結果的に未成に終わる原因の一つにもなりました。

戦争による中止

大軌から関西急行鉄道(関急)に再編された1942年(昭和17年)5月に四条畷線の特許を失効させた。

最終的に、戦時体制下での会社再編の中で、四條畷線の特許は失効し、計画は完全に中止となりました。

道路への転用と現在の阪奈道路

大阪市による買収と道路転用

大阪市ではこの路盤を産業道路(今の阪奈道路)に転用することを提案し、1937年(昭和12年)に大阪府と今福土地区画整理組合に用地は売却された。

完成していた路盤を無駄にしないため、大阪市は這を産業道路として転用することを決定しました。鉄道用に設計されたまっすぐなルートは、大阪と奈良を結ぶ幹線道路として理想的だったのです。

バス路線としての活用

大軌では、1940年(昭和15年)から東野田四丁目(京橋駅東口) – 蒲生四丁目 – 住道大橋間で路線バスの運行を一部完成したその道路を用いて開始

興味深いことに、大軌は鉄道計画が中止になった後も、完成した道路を使ってバス事業を展開しました。これは現在の近鉄バスの原型の一つと言えるでしょう。

現在の大喜橋を歩く

実際に大喜橋を訪れてみると、確かに鉄道橋として設計された痕跡を感じることができます。橋の幅は狭いものの、複線の線路を敷設することは十分可能な構造になっています。歩道と車道が分離されているのも、元々は線路を敷く予定だった部分を歩道に転用したからかもしれません。

橋から東西を見渡すと、ほぼ一直線に道路が続いているのが確認できます。これこそが、鉄道用に設計された緩やかな勾配と直線ルートの名残りなのです。

他の鉄道遺構との比較

このブログでも以前に取り上げた淀川貨物駅の今昔城東・淀川貨物線の軌跡など、大阪には多くの鉄道遺構が残されています。大喜橋の場合、特に興味深いのは、建設途中で計画が中止になったにも関わらず、橋脚部分だけは完成し、その後長期間にわたって異なる用途で活用され続けていることです。

また、赤川鉄橋:90年後に複線化の記事でも触れたように、鉄道建設では将来の複線化を見込んで橋梁を建設することがよくあります。大喜橋も同様に、将来の複線化を見込んだ構造だった可能性があります。

就職氷河期世代から見た鉄道計画史

私はバブル崩壊後の就職氷河期を経験しました。当時、多くの計画が頓挫し、建設途中で中止になったプロジェクトを数多く見聞きました。大喜橋の歴史を調べていると、戦時下で中止になった四條畷線の計画に、どこか現代の状況と重なる部分を感じてしまいます。

時代の転換期には、どんなに緻密に計画されたプロジェクトでも、社会情勢の変化によって中止を余儀なくされることがあります。しかし、大喜橋のように形を変えながらも地域に貢献し続ける遺構もあるのです。

まとめ

大喜橋は、単なる生活道路の橋ではありません。大正から昭和初期にかけての鉄道拡張の夢と、戦争による計画中止という時代の激動を物語る貴重な歴史遺構なのです。

近鉄奈良線から梅田へと向かう壮大な鉄道計画の一部として生まれ、約30年間人道橋として地域住民に愛され、最終的に道路橋として新たな役割を担うようになった大喜橋。その歴史を知ると、この小さな橋が持つ意味の深さに改めて驚かされます。

現在、大阪市は大喜橋を含む城北運河の複数の橋について、老朽化を理由に架け替えを検討しているとのことです。もし架け替えが実施される場合は、ぜひこの歴史的な経緯を踏まえた設計にしていただければと思います。

次回城東区を訪れる際は、ぜひ大喜橋に立ち寄ってみてください。橋の上から東西を眺めながら、約100年前に構想された鉄道計画に思いを馳せてみるのも興味深いのではないでしょうか。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


このブログ記事は、2021年9月時の写真と、2025年執筆時の文献調査に基づいて執筆しました。引き続き大阪の鉄道史跡について調査し、情報を整理していきたいと思います。

近鉄の前身、大阪軌道鉄道の未成線の名残
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