大阪から京への街道、京街道。古地図を紐解くと京街道の大阪市エリアは水路と並行している場所が多くあり、それぞれ川や水路の名前は違えど、街道沿いに水路があったというべきか、水路沿いに街道があったというべきか迷うくらい水路と並行しています。地下鉄でいうところの野江内代駅界隈から関目にかけて伸びていた内代井路、そしてそこに架かっていたであろう橋の一つ、榎並橋の親柱を紹介しつつ、想定される場所について触れたいと思います。榎並橋はかつての場所にはありませんが、一つはお寺脇の地蔵堂の脇に、そしてもう一つは榎並小学校の敷地内にそれらしいものを確認できました。
想定される場所
まずは結論として私が想定している榎並橋があった場所を示します。城見通に非常に近いところで、今は公有地のような場所になっている場所です。
このすぐ脇には野江七曲りの一画として、京街道があったことを示す石柱があります。
書籍・古地図からの検証
私がこのように主張する根拠として、古地図と郷土史を整理した本、”榎並と野江 ー近郊農村から都市への発展ー”からの情報をベースに説明していきたいと思います。
書籍:「榎並と野江」からの検証
前回、野江橋の場所を検証するにあたって、大阪中央図書館で借りてきた「榎並と野江 ー近郊農村から都市への発展ー」の本がベースになっています。
その81ページの「井路と道路」の節で、当時の井戸(水路)、鉄道、道路、池などの地図があるのですが、この地図の右側部に榎並橋の表記を確認できます。
野江橋以外に、亀岡橋という橋も確認できます。榎並川に合流しています。この東側に榎並橋の記述と橋らしいマーク、そのそのマークが内代井路の橋のように思えます。
これだとその界隈に橋があった、というレベルですので、古地図をもとに絞り込みをしてみたいと思います。
古地図:明治44年(1908年)時の2万分の一の地図
Webで参照できる地図は1/20000ですので、なんとなく橋らしいものを拡大するとわかりますが、川があるのかないのかわからず特定するにはまだ主張が弱いような気がします。よって、より詳細な地図が必要となり、これまた大阪中央図書館にいき、当地の1/10000の地図を確認してみることにします。
古地図:明治18年(1885年)時の一万分の一の地図
時系列が古くなってしまいましたが、私の検証プロセスだったといことでご容赦ください。この縮尺だと南側には京街道と並行する榎並川もはっきり認識できますし、野江橋界隈から北西方面(大川)、北方面、そして関目方面へつながる水路・井路を確認できます。京街道の中でも野江の七曲りと呼ばれるくねくねしている道沿いに川(内代井路)があり、その川の北側には内代村があり、橋らしきマークも確認できます。
白黒だとわかりにくいので、関係ある川・水路を着色してみました。もちろん周辺には多くの水路がありますが、今回は榎並川と榎並橋がかかっていたと思われる内代井路のみ着色しています。
これらの検証から、下記赤枠部がおそらく榎並橋であることが想定され、その場所の現在地が冒頭で示した地点だと思われます。
この内代井路沿いに、野江国道筋商店街が都島通沿いにあったと考えて間違いないでしょう。
親柱の場所
記事紹介記事にも親柱の場所も整理しておきます。
榎並橋の親橋の1本目:雲観寺前の夜泣地蔵尊脇
お寺の南東側には地蔵尊があり、その地蔵尊の脇にひっそりとあります。
どういう事情がわかりませんが、親柱が割れてしまったようですが、しっかり補修されています。「橋」の文字周りが黒く焼けたような跡があります。
榎並橋の親橋の2本目:榎並小学校の東側
榎並小学校のグランドの東側にあります。最寄りの歩道からでも確認できます。野江橋の親柱の脇にある小さなものです。
「榎並」の文字までは読めますが、「橋」と記載されているであろう文字は地面に埋まっていると思っています。実際は雲観寺前の親柱のおゆにもう少し長いものだったと思われますが、途中で折れてしまったか「榎並」の部分だけ地上に見えるようにしているのかもしれません。上部の形状は一緒ですが、石の質まではわからないので、この「榎並」と記述された石柱を榎並橋の親柱と早合点してはいけないのですが、脇は野江橋の親柱があることから、私はこの石柱を野江橋の親柱だと信じたいです。
最後に
水都と呼ばれた大阪、中心部には多くの河川が縦横に巡り、かつ太閤秀吉公の時代以降、今の北区や中央区にも多くの堀が掘られました。一方、東側の農村部では農業用の水だったり、また収穫物や肥料の運搬に水運が活躍した時代があり、多くの水路があり、その水路を跨ぐのも橋が多くかかっていた時代がありました。今はそのほとんどを見ることができず、時代の変化とともに役目を終え、都市の発展でその痕跡を見つけることは困難ですが、今回たまたま見つけた親柱をきっかけにかつて橋があった場所を推定することができました。
まだまだ域内には多くの遺構があると思うので、引き続き街探索をしていきたいと思います。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
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