京橋駅東の鯰江川と大和街道

前回のブログで京橋駅南の高低差について整理しました。今回は京橋駅東からすでに埋め立てられた鯰江川(なまずえがわ)が城北川までの道筋、そしてほぼ平行してる大和街道(一部、古堤街道、野崎街道とも呼ばれます)を歩いて気づいた点を整理してみます。鯰江川は16世紀に掘割され、江戸、明治、大正にかけての水運に大きく寄与し、戦後の日本成長期にあっては、域内の小さな水路を含め、大阪市東北部の悪水を排除することにも寄与していたようです。この川には鯰が多かったことから鯰江川と呼んだようです。平野部ですから、流れは穏やであったことは容易に想像つきます。この場所を普段何気なく移動している方や過去を知らない方、新しくこの界隈に来られた方にとって参考になれば幸いです。

対象区域

今回対象とする部分は北側から流れてくる榎並川(すでに埋め立てられています)が鯰念川へ合流する場所から東を対象としています。途中「おおさか東線」を抜けて東の城北川までの道筋をたどります。

前回記述した関連記事はこちらです。

最も古い「鯰江川」の記述

16世紀頃に掘割されたようです。その前に、この「鯰江川」という地名について遡りたいと思います。いつからあったのか、という点についてです。時は江戸時代まで遡り、第5代将軍徳川綱吉公の時代、1696年(元禄9年)に作成された「大坂大繪圖」で確認することができました。国立国会図書館デジタルコレクションにて確認できます。

国立国会図書館デジタルアーカイブ

当時の字体なので、今とまったく同じではありませんが、「鯰」の魚編が今のそれと異なります。魚編の下側の「、、、、」が「大」の字になっています。これは魚という漢字の異字体です。右側の「念」は同じです。安政2年(1855年)に江戸で発生した大地震後に描かれた絵内に同様の異字体の「鯰」の字を確認することができます。「世直し鯰の情」という題名のようです。

東京大学地震研究所図書室特別資料データベースレコードID:L000552

この鯰絵の詞書には、地震の時に人々を助けたのは伊勢神宮の神馬ではなく鯰たちであり、鯰を悪く言わない人々だけを助けたことが書かれています。下方には人間の姿をした鯰が、潰れた家の下敷きになった人々を助ける様子が描かれています。この鯰絵からは、地震を起こす張本人としてではなく、社会悪や病魔を取り除く救済者として、鯰が崇拝され賞賛されていたことがわかります。

鯰絵紹介 | 江戸の鯰たち~幕末の江戸に群れる地震鯰~ (u-tokyo.ac.jp) より

「江」の漢字は、地図上では「口」のようなものですが、これは変体仮名で「江」を置き換えたものと推察します。

脱線しますが、当時の地図からも「片町」の地名を確認できますね。北側のみ街になっているので、片町というのが由来らしいですが、当時は川の中州のような場所だったことから、よくある地名の「〇〇島」でも良かったような気もします(笑)。片町にあった片町駅に関する記事はこちらです。

おおさか東線まで

まずはおおさか東線までです。鯰江川沿いに歩いていきます。片側1車線の合計2車線ですが、歩道も含めて余裕ある道幅です。

1936年(昭和11年)での航空写真をベースにかつての川、線路などをプロットしました。

途中、鯰江川からさらに支流のような川が派生していることが確認できます。もともとが白黒の航空写真なので、私も最初は見間違いかなと思いましたが、明らかに川でした。1936年の昭和初期のこの地域にはすでに住宅が多くたっていますが、もともとこの界隈は、井路(いじ)川といって、農地を網目を縫うように水運用の小さい運河が多くあったことから、その名残かもしれません。もう少し拡大すると実際に橋がかかっており、道路と運河との反射率が異なるため、同じ白黒であっても色のスケールが異なります。

鯰江川に水運用の舟が数隻あることも確認できます

現代の地図と比較してみると、かつての支流も含めてすでに埋め立てられていますが、当時の川の流れ、橋の部分などを読み取ることができます。

東西に3本の道路を確認できますが、①一番下が鯰江川、②中央からやや上の細い道が大和街道、そしてかつて支流の橋があり、③上側の道路が井路/運河/支流の類の川だったことがわかります。

よって、このあたりの断面図を(超ざっくりですが)整理しますと、以下のようなものです。

実際の大和街道を歩きつつ、鯰江川と北側支流を見ますと、如実な高低差があり、どちらかというと、北側の支流のほうが距離あたりの高低差が激しく、鯰江川は若干緩やかなような気がします。いくつか写真も撮りましたが、現地を歩く機会ありましたら、ぜひご自身の目で見てもらうとその高低差の違いをご認識できるかと思います。

上の写真は鯰江川を起点として、JR側を撮った写真と鯰江川から大和街道に向けて撮った写真です。かつての堤防との段差らしき遺構を家々の間から確認することができますし、更地になっているところはそのまま確認することができ、高低差を確認することができるかと思います。

大和街道を軸にして、北側の支流側については、距離あたりの高低差が顕著でしたが、写真におさめておらず、次回通過時に撮影して、本ページを更新したいと思います。

さて、いよいよ「おおさか東線」を横切りますが、ここの横切りもかつて堤防として比較的高い場所にあった街道と、河川との高低差が如実にわかります。

左側は1936年の航空写真、右側が今の写真です。航空写真がわかりやすいですが、結論からいうと、街道は踏切として横断し、河川は鉄道の下を横断します。当然鉄道は河川部では橋架のようになっています。

写真ベースではこんな感じです。(ここでも北側支流部のアンダーパスを撮り漏らしておりました。)

おおさか東線~今里筋~今福交番まで

おおさか東線を抜けて、今里筋を横切り、今福交番まで古地図に線引きしてみました。

今里筋は道路拡幅工事の状況であることが読み取れます(緑色破線)。寝屋川にはすでに十分な道幅のある橋がかけられており、北側はまだ用地買収ができていない地域があり、その延長上には広い道路が見えます。今福交番あたりには三角州のような場所があります。舟からの物資に荷下ろしちかに使っていたのかもしれません。このあたりから大和街道はやや南東のほうへ曲がりっていきます。

さて、おおさか東線を過ぎると、若干川幅、道幅が少し狭くなった感があります。

その代わり、家々の間に、その高低差を確認できる階段や、石堤のような遺構を確認することができます。

かつて川を埋める前から、川沿いに住宅が存在していたかと思いますが、古い家はどちらかという1Fは鯰江川への往来のためか作業場や倉庫のような住宅が目につき、家の玄関は大和街道沿いにある、といったタイプの家を目にします。

わずかながらですが、写真も撮れました。例えばこちらの家は右側の歩道や埋め立てられた鯰江川よりも低い場所に家があり、歩道から直接入れないほどの高低差があります。

大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡の碑

今福交番近くに、大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡の碑を確認できます。わりかし最近の2015年(平成27年)に設置されたもので、説明用のプレートもあります。翌年に大河ドラマ「真田丸」も控えて、有志が寄贈されたと思われます。

大坂冬の陣では、両軍のにらみ合いが続き、挑発に乗って真田丸を攻撃した前田勢やそれにつられて八丁目口・谷町口では井伊勢・松平勢らが攻撃をしかけました。この際、豊臣方は防戦側であり、寄せ手の東軍に対して比較的に有利な条件で戦うことができました。

一方、この地今福・蒲生の地の合戦は、隘路(あいろ:せまい地域)だったといえ、野戦ともいえるガチの合戦であり、そういった観点では、大阪冬の陣の最激戦地と評する方もいるようです。

Battle of Imafuku ja.png
Blowback – Image created by Blowback, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3216374による

簡単にまとめると、もともとこの地は低湿地帯であり、まともに軍隊が行軍できるのは堤防沿いだけでした。豊臣方はこの地を防備すべく四重の柵を設け、飯田家貞、矢野正倫らに守らせます。守備兵はそれぞれ300で合計で兵は600。

一方、徳川方はこの地に城や砦を築く橋頭保として考え、柵を奪取すべく、佐竹義宣率いる兵1,500に攻撃をかけさせました。防戦むなしく多勢にあって飯田、矢野の両将は討死します。そこへ若き勇将、木村長門守重成(この時21歳、22歳)が援軍として到着し、反撃します。両将の討死までに間に合えば、と思うところありますね。

膠着状態が続いたので、豊臣方はさらに猛将の後藤又兵衛基次を援軍として送り込み、佐竹勢を押し戻しました。豊臣方両将の活躍により、佐竹側先鋒の将、渋江政光は銃撃により討死し、佐竹先鋒隊は潰走となります。佐竹側は大和側対岸の上杉景勝に救援を頼み、上杉、堀尾、榊原らが豊臣方へ銃撃を加え始めたため、後藤・木村の軍勢は大坂城へ引き上げました。

両軍痛み分けとなりましたが、徳川方は当初目論んでいたこの地での砦もしくはそれに準じた軍事施設の建設を断念しているので、そういった観点で豊臣方は徳川方の意図を防いだという点から、局所的ではありますが豊臣方へ軍配を上げたくなります。

三郷橋の丸木舟

この地にはかつてこの場所を舟によって移動していたと思われる古代人がつくった丸木舟が発掘されています。

今は埋め立てられている鯰江川に三郷橋(今福西1丁目)が架かっていました。大正6年(1917年)5月、今福三郷橋閘門樋の工事のとき、地下5.5メートルの川底から楠の大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟(長さ約13.5メートル、幅約1.9メートル)が発見されました。

この舟は、平安朝以前のものと推定され、古代にこの地方が一面内海で池や沼が点在していたころに航行していたものと推定されます。古代人が水上交通に用いていたもので、発掘された舟はその後三郷橋の近くに置かれていて、各地から弁当持参で見物に来る人もあったそうです。その後、大阪城内に展示されていましたが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失しました。

大阪市城東区ホームページより 若干編集

大東亜戦争時にアメリカ軍の空襲により、喪失した建築及び文化遺産は多いですが、大坂城はもとより、場内に展示されていたこの丸木舟も喪失してしまったのは本当に残念です。現存していれば、炭素測定法などにより、具体的な過去の年代をより詳細まで把握することはできたでしょう。

今福・蒲生の戦い跡の碑の近くに市の教育委員会が設置した説明パネルと発掘当時に建てられた社が祀られています。

今福交番から城北川まで

今の地図をベースに鯰江川を青色線で。茶色は大和街道
1936年の航空写真。青線部が鯰江川。茶色は大和街道

積み下ろし場として活躍したであろう、三角州のようになっていた今福交番左側から今福交番(赤ポイント)から東へむかいます。わずかなカーブとともに、城北川まで続きます。もともと川を埋めたので、城北川手前で若干上り坂になっているを確認できます。

城北川には現在、2本の橋がかかっています。鯰江川が埋め立てられ、幹線道路の一つになった時の橋、そして旧道時の橋(古い航空写真上でも確認できます)です。近い距離に新旧2つの橋がかけられています。ここに鯰江川がなかったことを知らなければ、旧道のパイパス的な存在くらいにしか認識できませんね。

大和街道(古堤街道)沿い

かつては街道として西から東、東から西へと多くの人が行き交い、南は鯰江川と寝屋川、北は湿地帯もしくは田園地帯を望んでいたことでしょう。場所によっては北側にも小さな川が流れる地域があり、相対的に小高い堤を歩くのは気持ちよかったと思います。今は通り沿いに時折古い建物を確認できます。

また北側であっても、下り坂を確認することができ、この街道が堤防であり、両脇には高低差があることを実感させられます。

いつ、鯰江川が埋め立てられたのか?

地図から判断すると、1950年代末から、東側から埋め立てを開始し、1972年に埋め立てが完了したものと思われます。大阪市旭区のHPにそれらしい記述を確認することができました。

鯰江川は北河内郡の一部、並びに旧榎並荘の排水を集め、東は今福五ヶ閘門より、西は北区東野田に至り寝屋川に合流していた。不法投棄と水質悪化に伴い、環境衛生上の面で放置できなくなったため、昭和 47年 (1972) に埋め立てられ、跡地は道路として利用されている。

大阪市旭区のHPより

地図から見ても少なくても1975年以前には埋め立て完了したものと思われます。

詳細な点については図書館などにいって地域関連の本、もしくは今道路となっている工事の履歴などを市役所・区役所等で確認すればわかるかと思います。あるいは、機会許せば、当時をことを良く知っているであろう、この地域に永きに渡ってお住まいのご老人に聞いてみたいと思います。

公開されている古地図をベースに、「いつぐらいまでは存在してたのか」というレベルであれば、私でも調べることができるかと思い、調べてみました。

1945-1950年時の航空写真

右側の城北川から左の寝屋川までを確認できてます。

1961-1964年時の航空写真

城北川から三郷橋(今福交番あたり)までが埋め立てられています。
青色点線部が埋め立てられた部分

1975年-1979年時の航空写真(左側)

道路としては確認でき、川としては確認できません。右側は1961-64年時の航空写真
京橋駅界隈も鯰江川を確認できず。

おわりに。。。

普通に何も考えずにすたすたと歩けば、ものの10分、15分くらいの距離であっても、家々や段差など目を凝らしてみえるとみどころが多いです。自転車でさーっと抜けてしまうとなかなか気づきにくいところも徒歩だから気付くことができた遺構などもあります。

普段の通勤路、通学路など、過去地図と照らし合わせてみると、新しい発見があるかと思います。

参考情報

大阪市城東区:鯰江川 (…>区のプロフィール>城東区を流れる川) (osaka.lg.jp)

今福の戦い – Wikipedia

エナガ先生の講義メモ : 野江水神社の参道②鯰江川(都島区・片町~城東区・今福) (livedoor.jp)

昔の水路『井路川』

大坂大繪圖|書誌詳細|国立国会図書館オンライン (ndl.go.jp)

鯰絵紹介 | 江戸の鯰たち~幕末の江戸に群れる地震鯰~ (u-tokyo.ac.jp)

鯰江川跡と大和街道を歩く
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