筑肥線の記憶を残す黄色と黒のバー—福岡市城南区別府を歩いて感じた鉄道の面影

昭和58年(1983年)3月22日。この日、国鉄筑肥線の博多駅~姪浜駅間が廃止され、同時に福岡市営地下鉄空港線との相互直通運転が開始されました。あれから42年の時が流れ、令和の時代を迎えた現在でも、かつてそこに鉄道があったことを物語る小さな痕跡が街の随所に残されています。

街歩きで出会った「おっ!」という瞬間

福岡に住むようになって、休日にはよく街をブラブラと歩いています。特に目的もなく歩いている時に、ふと「あれ?これは何だろう」と思うような小さな発見があると、とてもワクワクしてしまいます。

先日も、福岡市城南区別府1丁目2−1付近を何となく通りがかった際、駐車場の出庫バーが目に留まりました。「おっ!」と思ったのは、その色合いです。黄色と黒の縞模様。まさに鉄道の踏切遮断機と同じ配色ではありませんか。

周囲を見渡してみると、この道路がかつて筑肥線が走っていた場所であることを思い出しました。これは偶然の一致なのでしょうか、それとも地主さんが意図的に選ばれた色合いなのでしょうか。きっと後者なのではないかと思っています。

現在、この場所は国道385号の一部として整備されており、マンションや病院が立ち並ぶ住宅地区となっています。写真で見える「みつき病院」の看板も、この地域の現在の様子を物語っています。しかし、黄色と黒のバーが上下に動く様子を見ていると、かつてここを列車が通過していた時代のことを自然と思い起こさせてくれます。

筑肥線の歴史を振り返ってみます

筑肥線の歴史を調べてみると、大正12年(1923年)に遡ることがわかります。当時の北九州鉄道によって浜崎駅(現・佐賀県唐津市)~福吉駅(現・福岡県糸島市)間が開業したのが始まりで、昭和10年(1935年)には博多駅~伊万里駅間が全線開通しました。昭和12年(1937年)に国有化され、国鉄筑肥線として多くの乗客を運んでいたようです。

福岡市内の博多~姪浜間は、福岡市の中心部と西部地域を結ぶ重要な交通路線として機能していました。単線非電化でありながら輸送密度は8000人台と、当時の国鉄基準では「幹線」に分類される利用者数を誇っていたといいます。福岡市の人口が急激に増加していた1970年代には、むしろ利用者は増加傾向にあったそうです。

写真:「筑肥線鳥飼駅付近を走るキハ35系他(1967年)」
撮影:浮穴三郎(個人撮影)
出典:Wikimedia Commons
ライセンス:CC 表示-継承 4.0

上の写真は昭和42年(1967年)に撮影された、鳥飼駅付近を走るキハ35系気動車の貴重な記録です。まさに今回私が歩いた城南区別府の近くエリアですね。写真を見ると、当時の筑肥線沿線はまだのどかな住宅地という雰囲気で、現在の都市化された様子とは大きく異なることがわかります。このキハ35系は筑肥線の代表的な車両で、非電化時代の筑肥線を支えていました。

急行「平戸」や「からつ」といった優等列車も運行され、博多駅から松浦線(現・松浦鉄道)の佐世保方面まで直通する列車も存在していました。地方の私鉄としては珍しく、都市部への乗り入れを果たしていた路線だったのですね。

廃止に至った複雑な事情を探ってみると

では、なぜこれほど利用者の多い路線が廃止されることになったのでしょうか。その理由を調べてみると、皮肉にも沿線地域の発展にあったことがわかります。

福岡市の人口は昭和35年(1960年)の約48万人から昭和50年(1975年)には100万人を突破する急成長を遂げました。それに伴い自動車交通量も激増し、地上を走る筑肥線の43か所もの踏切が深刻な交通渋滞の原因となっていたようです。特に福岡市内の区間では、踏切による渋滞が日常化していたといいます。

一方、福岡市は昭和50年(1975年)から、博多駅と姪浜駅を天神や西新などの市内主要地点を経由して結ぶ地下鉄の建設を開始していました。この地下鉄は踏切による交通渋滞を根本的に解決する手段として期待されていたのです。

国鉄と福岡市の利害が一致したのは昭和52年(1977年)のことです。国鉄は多額の債務を抱え大規模な設備投資が困難な状況にあり、福岡市は地下鉄建設費の負担軽減と交通渋滞の解消を求めていました。両者は筑肥線博多~姪浜間の廃止と福岡市営地下鉄との相互直通運転に関する覚書に調印したのです。

廃線から42年、街に残る痕跡を探して

昭和58年(1983年)3月21日限りで筑肥線博多~姪浜間は廃止され、翌22日から福岡市営地下鉄空港線との相互直通運転が開始されました。同時に筑前簑島、筑前高宮、小笹、鳥飼、西新の5駅も廃止となりました。

廃線跡の多くは道路として再整備されています。美野島緑道、梅光園緑道といった遊歩道として整備された区間もあれば、筑肥新道のように道路愛称が付けられた区間もあります。室見川筑肥橋、樋井川筑肥橋といった橋梁名にも、筑肥線の名前が残されているのです。

こうした公式な記念物や遺構もとても興味深いのですが、今回城南区別府で出会った駐車場の黄色と黒のバーのような、日常的な風景の中に溶け込んだ記憶の断片の方が、私には印象的に感じられました。

地域の記憶を繋ぐものたち

現在、筑肥線は姪浜駅から地下鉄で博多駅に乗り入れており、利用者にとっては以前より便利になった部分も多いと思います。電化により運行頻度も向上し、複線化された区間では輸送力も大幅に向上しています。

それでも、かつての筑肥線を知る世代の方々にとって、地上を走る単線の列車が醸し出していた風情は特別なものだったに違いありません。田園風景の中を糸島、唐津方面に向かう列車、博多駅に向かう通勤・通学客を乗せた列車。そうした光景は、もはや記憶の中にしか残されていないのですね。

城南区別府の駐車場で出会った黄色と黒のバーが、果たして地主さんの意図的な選択なのか、それとも単なる偶然なのかは知る由もありません。しかし、鉄道の遮断機と同じ色合いのバーが現在も動き続けているという事実に、この土地に刻まれた鉄道の記憶を感じずにはいられませんでした。

街歩きで発見する歴史の痕跡はワクワクするものです

福岡に住むようになってから、市内には筑肥線以外にも多くの鉄道の痕跡が残されていることを知りました。市内電車の軌道跡、貨物支線の跡地、駅名の由来となった地名など、注意深く街を歩けば様々な発見があります。こうした小さな発見の積み重ねが、都市の歴史を身近に感じさせてくれるのですね。

福岡出身ではない私ですが、現在はこの福岡の地に根を張って暮らしています。こんな風に街をブラブラと歩いて、ちょっとしたことでも「おっ!」と思える発見があると、本当にワクワクした気持ちになってしまいます。地域のちょっとした歴史や文化に触れることで、毎日がとても豊かに感じられるのです。

特に今回のような、単なる風景として通り過ぎてしまいがちな場所にも、それぞれの時代の物語が隠されていることに気づかされました。城南区別府の黄色と黒のバーも、そうした物語の一部なのかもしれません。

令和の時代においても、鉄道としての遮断機の役目は終えたものの、駐車場の出庫バーとして黄色・黒色のバーが動き続けています。かつてここを通過した無数の列車と乗客たちの記憶を、静かに受け継いでいるかのように思えてなりません。

このブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。皆さんも街を歩かれる際に、こうした小さな歴史の痕跡を見つけられるかもしれませんね。


参考:

チャット操作

Sonnet 4

福岡に住むようになって、休日にはよく街をブラブラと歩いています。特に目的もなく歩いている時に、ふと「あれ?これは何だろう」と思うような小さな発見があると、とてもワクワクしてしまいます。

先日も、福岡市城南区別府1丁目2−1付近を何となく通りがかった際、駐車場の出庫バーが目に留まりました。「おっ!」と思ったのは、その色合いです。黄色と黒の縞模様。まさに鉄道の踏切遮断機と同じ配色ではありませんか。

周囲を見渡してみると、この道路がかつて筑肥線が走っていた場所であることを思い出しました。これは偶然の一致なのでしょうか、それとも地主さんが意図的に選ばれた色合いなのでしょうか。きっと後者なのではないかと思っています。

現在、この場所は国道385号の一部として整備されており、マンションや病院が立ち並ぶ住宅地区となっています。写真で見える「みつき病院」の看板も、この地域の現在の様子を物語っています。しかし、黄色と黒のバーが上下に動く様子を見ていると、かつてここを列車が通過していた時代のことを自然と思い起こさせてくれます。

筑肥線の歴史を振り返ってみます

筑肥線の歴史を調べてみると、大正12年(1923年)に遡ることがわかります。当時の北九州鉄道によって浜崎駅(現・佐賀県唐津市)~福吉駅(現・福岡県糸島市)間が開業したのが始まりで、昭和10年(1935年)には博多駅~伊万里駅間が全線開通しました。昭和12年(1937年)に国有化され、国鉄筑肥線として多くの乗客を運んでいたようです。

福岡市内の博多~姪浜間は、福岡市の中心部と西部地域を結ぶ重要な交通路線として機能していました。単線非電化でありながら輸送密度は8000人台と、当時の国鉄基準では「幹線」に分類される利用者数を誇っていたといいます。福岡市の人口が急激に増加していた1970年代には、むしろ利用者は増加傾向にあったそうです。

急行「平戸」や「からつ」といった優等列車も運行され、博多駅から松浦線(現・松浦鉄道)の佐世保方面まで直通する列車も存在していました。地方の私鉄としては珍しく、都市部への乗り入れを果たしていた路線だったのですね。

廃止に至った複雑な事情を探ってみると

では、なぜこれほど利用者の多い路線が廃止されることになったのでしょうか。その理由を調べてみると、皮肉にも沿線地域の発展にあったことがわかります。

福岡市の人口は昭和35年(1960年)の約48万人から昭和50年(1975年)には100万人を突破する急成長を遂げました。それに伴い自動車交通量も激増し、地上を走る筑肥線の43か所もの踏切が深刻な交通渋滞の原因となっていたようです。特に福岡市内の区間では、踏切による渋滞が日常化していたといいます。

一方、福岡市は昭和50年(1975年)から、博多駅と姪浜駅を天神や西新などの市内主要地点を経由して結ぶ地下鉄の建設を開始していました。この地下鉄は踏切による交通渋滞を根本的に解決する手段として期待されていたのです。

国鉄と福岡市の利害が一致したのは昭和52年(1977年)のことです。国鉄は多額の債務を抱え大規模な設備投資が困難な状況にあり、福岡市は地下鉄建設費の負担軽減と交通渋滞の解消を求めていました。両者は筑肥線博多~姪浜間の廃止と福岡市営地下鉄との相互直通運転に関する覚書に調印したのです。

廃線から42年、街に残る痕跡を探して

昭和58年(1983年)3月21日限りで筑肥線博多~姪浜間は廃止され、翌22日から福岡市営地下鉄空港線との相互直通運転が開始されました。同時に筑前簑島、筑前高宮、小笹、鳥飼、西新の5駅も廃止となりました。

廃線跡の多くは道路として再整備されています。美野島緑道、梅光園緑道といった遊歩道として整備された区間もあれば、筑肥新道のように道路愛称が付けられた区間もあります。室見川筑肥橋、樋井川筑肥橋といった橋梁名にも、筑肥線の名前が残されているのです。

こうした公式な記念物や遺構もとても興味深いのですが、今回城南区別府で出会った駐車場の黄色と黒のバーのような、日常的な風景の中に溶け込んだ記憶の断片の方が、私には印象的に感じられました。

地域の記憶を繋ぐものたち

現在、筑肥線は姪浜駅から地下鉄で博多駅に乗り入れており、利用者にとっては以前より便利になった部分も多いと思います。電化により運行頻度も向上し、複線化された区間では輸送力も大幅に向上しています。

それでも、かつての筑肥線を知る世代の方々にとって、地上を走る単線の列車が醸し出していた風情は特別なものだったに違いありません。田園風景の中を糸島、唐津方面に向かう列車、博多駅に向かう通勤・通学客を乗せた列車。そうした光景は、もはや記憶の中にしか残されていないのですね。

城南区別府の駐車場で出会った黄色と黒のバーが、果たして地主さんの意図的な選択なのか、それとも単なる偶然なのかは知る由もありません。しかし、鉄道の遮断機と同じ色合いのバーが現在も動き続けているという事実に、この土地に刻まれた鉄道の記憶を感じずにはいられませんでした。

街歩きで発見する歴史の痕跡はワクワクするものです

福岡に住むようになってから、市内には筑肥線以外にも多くの鉄道の痕跡が残されていることを知りました。市内電車の軌道跡、貨物支線の跡地、駅名の由来となった地名など、注意深く街を歩けば様々な発見があります。こうした小さな発見の積み重ねが、都市の歴史を身近に感じさせてくれるのですね。

福岡出身ではない私ですが、現在はこの福岡の地に根を張って暮らしています。こんな風に街をブラブラと歩いて、ちょっとしたことでも「おっ!」と思える発見があると、本当にワクワクした気持ちになってしまいます。地域のちょっとした歴史や文化に触れることで、毎日がとても豊かに感じられるのです。

特に今回のような、単なる風景として通り過ぎてしまいがちな場所にも、それぞれの時代の物語が隠されていることに気づかされました。城南区別府の黄色と黒のバーも、そうした物語の一部なのかもしれません。

令和の時代においても、鉄道としての遮断機の役目は終えたものの、駐車場の出庫バーとして黄色・黒色のバーが動き続けています。かつてここを通過した無数の列車と乗客たちの記憶を、静かに受け継いでいるかのように思えてなりません。

このブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。皆さんも街を歩かれる際に、こうした小さな歴史の痕跡を見つけられるかもしれませんね。


参考

筑肥線遺構か、城南区別府の駐車場
最新情報をチェックしよう!