- 1 大阪砲兵工廠とは
- 1.1 大阪砲兵工廠の場所と広さについて
- 1.2 太平洋戦争時の状況
- 1.3 戦後
- 1.4 戦前・戦後の地図・航空写真
- 1.4.1 1908年(明治41年)時の地図
- 1.4.2 1929年(昭和4年)時の地図
- 1.4.3 1936年(昭和11年)時の航空写真
- 1.4.4 1947年(昭和22年)時の地図
- 1.4.5 1945-50年(昭和20-25年)時の航空写真
- 1.4.6 1961-64年(昭和41-44年)時の航空写真
- 1.4.7 1967年(昭和42年)時の地図
- 1.4.8 1974-78年(昭和49-53年)時の航空写真
- 1.4.9 1978年(昭和53)時の地図
- 1.4.10 1978-83年(昭和53-58年)時の航空写真
- 1.4.11 1985年(昭和60年)時の地図
- 1.4.12 1984-88年(昭和59-63年)時の航空写真
- 1.4.13 現代の航空写真と地図
- 2 平和のシンボルの一つとして役立ってほしい石碑
- 3 場所
- 4 その他写真
- 5 最後に
- 6 参考リンク
大阪砲兵工廠とは
大阪砲兵工廠の場所と広さについて
最終時は大阪陸軍造兵廠と呼ばれ、今の大阪城の東外堀から、大阪城公園の東側、森ノ宮のほどんどを占め、北側のOBPなども含めて、アジア最大の軍需工場でした。
日本の文明開化に伴って、当時は富国強兵政策のもと、1870年(明治3年)に早々と造兵司設置が設置され、その後拡張が進められ、終戦時には広大な敷地となっていました。
もちろん最先端の技術を有していたので、軍事用ばかりでなく、民間向けや社会インフラ上必要なものも製造していました。
借りていた土地も含めて、596万m2もあり、これは東京ドームの広さに換算すると、なんと127個もの広さをもつ広さです。大阪ドーム(京セラドーム)の広さに換算すると、176個。なんという広さでしょうか。
大川と寝屋川が最寄りにあり、水運に便利な場所であり、また城東線(今の大阪環状線)も貫通しており、鉄道運輸上の引き込み線があったことは想像に容易くなく、工場敷地内への実際に引き込み線もあったようです。
太平洋戦争時の状況
大阪は大小50回にわたる空襲をうけ、その中でも8回にわたって、大編隊での大空襲を受けました。
大阪砲兵工廠はそれまで幸いにして大きな被害を受けずにいましたが、終戦1日前の1945年8月14日、第8回目となる大空襲により灰燼に帰します。
1945年8月14日に約150機のB29の空襲があり、アメリカ軍機の狙いは大阪陸軍造兵廠でした。約700個の1トン爆弾を投下しました。紙と木でできている建屋が主の日本家屋を効率的に焼き払うのは焼夷弾が多く使われましたが、コンクリートや煉瓦の建屋も多かったであろう工場建屋、工場の設備を徹底的に破壊するには火災では足りず、文字通り爆発力がある爆弾が多用されたわけです。
この際、タイミング悪く近くにあった京橋駅にも1トン爆弾が4つ直撃し、避難していた方々が数百人亡くなっています。
日本防空のための戦闘機はもはや日々飛来するB29爆撃機と随伴してくるP51戦闘機(B29護衛用)に対しては満足に戦える力が残っていなかったのでしょう。
米軍の目論見通り、大阪砲兵工廠は完全に破壊されました。終戦として天皇陛下からの玉音放送があったのはその翌日の8月15日の正午でした。
戦後
戦後は1トン爆弾の不発弾も残り、またとにかく広大する敷地から再開発もなかなか進まなかったようです。
大阪城東堀から環状線までは大阪城公園として整備され、森ノ宮地区はJRの操車場、そして住宅公団(現在のUR)によって、集合住宅が建築され、そして京橋南にある今のOBPエリアについては、戦後に鉄鋼工場などが建ちましたが、80年代の大阪ビジネスパーク(OBP)として再開発されて今日にいたります。
戦前・戦後の地図・航空写真
戦前・戦後の地図航空写真などをもとに大阪砲兵工廠がどのような移り変わりをしていったかトレースしていきたいと思います。大阪砲兵工廠の敷地だったと思われる部分を赤線で囲っています。時代によっては若干異なるようなところもありますが、1929年(昭和4年)時の地図をベースにトレースし、それを各年代の地図へ張り付けています。
1908年(明治41年)時の地図
環状線の右側は、まだ工場らしき建屋などを確認できず、演習場のような広い敷地だったことが伺えます。また今のOBPの北東部、環状線よりの地域には何やらため池のようなものも確認できます。
1929年(昭和4年)時の地図
敷地内の建屋数も増えています。OBPの北東部のため池らしき場所は埋立されたのか、OBPの三角州エリアにも建屋が増えています。東側の練兵場には、「飛行機格納庫」の記載も見られます。
1936年(昭和11年)時の航空写真
この頃の航空写真は軍の重要施設、インフラ設備(水道等)、兵舎施設、民間の広い敷地を有する工場部などは黒塗りされています。大阪砲兵工廠部はもとより、写真の左下側は大阪第八連隊の兵舎があった場所です。
1947年(昭和22年)時の地図
発行されたのは1952年(昭和32年)ですが、監修された地図は1947年(昭和22年)時のものです。圧倒的に建屋数が減っています。矩形で残っている建屋も大きな被害を受けているものと思われます。
1945-50年(昭和20-25年)時の航空写真
戦後の航空写真です。爆弾による破壊を免れた建屋も散見されますが、建屋の多くは爆弾により、その姿を消しています。もちろん大阪砲兵工廠に限らず、周辺地域も焼夷弾により、木造建屋は焼けてしまっています。残っているのは火災を免れたわずかな地域やコンクリートや煉瓦造りの建屋だったと思われます。
1961-64年(昭和41-44年)時の航空写真
大阪城公園が整備されつつあります。OBPエリアには工場らしき建屋が見えます。環状線右側も大きな建屋を確認できます。
1967年(昭和42年)時の地図
戦後22年経過した時点の地図です。この時にはすでに大阪城公園が整備されています。大阪城の北東側には、「関西富士銅*」らしき工場、そしてOBPには「大阪製鋼工場」、「八幡工コンスチール」と読める工場もあります。環状線東側エリアも、今の電車点検場への引き込み線らしきものを確認できます。そのさらに東側には工場マークが散見されます。
1974-78年(昭和49-53年)時の航空写真
大阪城公園はほぼほぼ今と同様な歩道含めて整備され、運動場らしきものも見えます。OBPはかつてあった工場が取り壊されているのでしょうか、再編が進んでいるように見えます。環状線東側の電車点検場はさらに規模を広げ、その東側には今のURの集合住宅が建設中のようにも見えます。
1978年(昭和53)時の地図
大阪城公園内にはまだ工場が残っており、OBPエリアの建屋はさらに減少し、工場マークを確認できません。環状線東側エリアはほぼほぼ今の点検場や集合住宅だと思われる建屋を確認できます。
1978-83年(昭和53-58年)時の航空写真
環状線の西側は大阪城公園として着々と整備が進んでいます。野球場も見られます。OBPエリアはこの頃再開発途上にあるようです。森ノ宮エリアのURの集合住宅が何棟もあることを確認できます。
1985年(昭和60年)時の地図
大阪城北東部にあった工場はなくなりました。OBPエリアは、弁天町から城見町へと住所名が改称されていますね。森ノ宮ニ丁目エリアはほぼほぼ今の状態です。
1984-88年(昭和59-63年)時の航空写真
変化があるのはOBPエリアだけでしょうか。1983年に着工し、1986年に竣工したOBPツインタワー(TWIN21)が先行して建っています。その他の各種ビル群はまさにこれから建設されようとしているところでしょうか。
現代の航空写真と地図
OBPの各ビル群もそびえたち、大阪城公園は市民の憩いの場であり、スポーツ、芸術の場へと変わっています。環状線東側も電車点検場、住宅公団によって、高層集合住宅が何棟も林立しているのは言うまでもないですね。
平和のシンボルの一つとして役立ってほしい石碑
森ノ宮ニ丁目の住宅公団内の一画にあります。
遠目からは非常にわかりにくく、地蔵尊があるお堂らしきものはすぐ確認できました。
周囲には色んな植栽ありますが、石碑に掘られた字への着色されていなかったせいか、近くまでいかないと読めません。詳細な記述も周囲にはなく、ただただ石碑がポツンとある状態です。軍需工場だったとはいえ、アジア最大を誇った石碑としてはあまりにも侘しい気がするのは私だけでしょうか。
近くにある地蔵尊です。地域の方々によりしっかり管理されてます。その斜め後ろにある何かのモニュメントのようにも思える、釣り針のような石の造形物は何かわかりませんでした。植栽に放水するためのホースが巻き付けられてしまっており、これが大切なものなのか何なのかもはやわかりません。
場所
どちらかというと広大な敷地だった砲兵工廠の南東側にあります。
その他写真
敷地内公園もあり、また散歩時に少し腰をおろして休憩できる屋根付きベンチもあります。私が訪れた際は、平和の象徴でもある鳩がたくさんいました。
遊具もあります。その他、公園では定番のブランコや滑り台も。小さな象さんも可愛いですね。幼児でも乗れそうです。
公園で遊ぶ子供達や虫を探している子供達。かつての世代と比べて相対的に子どもの数は減少していますが、未来を担う子供達には健やかに育ってほしいと願うばかりです。
最後に
軍需工場=平和を脅かす悪の存在、とレッテル張るの容易いです。しかし、世界を見渡すと、軍需製品を設計・開発、製造、販売によって国経済の柱にしている国も少なくありません。代表的なのは米国ですが、中国、欧州諸国など、いずれの国も軍需工場、軍需産業を有しています。
米国ではいえば、モノのカウントの仕方で変わってくるかと思いますが、就労者の2、3%くらいの方が関連する仕事についているとも言われています。
アメリカの軍需産業で働く驚きの従業員数 | Be Free Now!
米国をはじめ軍需産業を有している国々は、武器弾薬を海外に輸出することで外貨を得ているのも事実です。またそれら産業に従事している人が多くいることで雇用を確保している、という側面もあります。
もし何も軍備を持たなかったら、隣国の匙加減一つで侵略を許してしまい、平和な日々を送れなくなってしまった例は人類の歴史に枚挙にいとまがありません。この21世紀になってからでも、まさか起きないだろうと思っていましたが、一方的な侵略と攻撃ともいえる戦争が起きています。もちろん双方の見方は異なり、「これは解放なのだ」というような表現もするでしょうが、そうさせないためにもやはり一定の防御力なり抑止力となるものは不可欠だと思っています。
明治以降の富国強兵政策に伴うものは、当時の世相が帝国主義でやるか・やられるか、の世界観の中で、欧米を中心にした国々がアフリカやアジアを侵食し、植民地という名で侵略した過去があります。当地の発展を目論んだものではなく、搾取一辺倒のものが多かったといえるでしょう。
日本は先人たちの偉大な功績により、植民地化を免れ、列強諸国に並ぶことができました。それらを支えていたのは、国内ではあまり良い顔されませんが、それを支える工場があったこともいえると思いました。
よって、アジア最大の工場、大阪砲兵工廠があったという点は、過去の事実や世相をより深くしるためには石碑以外にももう少し後世にそれを伝えるようなものがあっても良いのではなかろうか、と感じました。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
参考リンク
過去の写真、経過状況など含めて、わかりやすく説明されています。