大阪市北区樋ノ口町の大川から天満を抜けて天神橋と難波橋の地域(今の菅原町)まで水路だった天満堀川、その中間地域にあり日本一長い商店街である天満商店街の天神橋三丁目と四丁目を流れていました。かつては夫婦橋(ふうふばし)という名の橋がかかっていました。1960年代以降の都市高速建設時に天満堀川は埋め立てられ、堀川にあった橋梁もその役目を終えましたが、この天満界隈でこの夫婦橋の親柱を2本発見することができましたので、写真ともともに場所の概要を整理しておきます。
天満堀川については過去記事をご参照ください。
夫婦橋の場所
大阪市営地下鉄扇町線の四番出入口、もしくはJR環状線の天満駅の南口からもすぐです。
夫婦橋の由来
大阪市のHPでは下記のような紹介がされています。
ここに女夫池という池があった。この名の起こりについては二説あるが、その一説に、昔この辺りに仲睦まじい若夫婦が住んでいた。訳あって、夫は妻に三年間待ってほしいと言い置いて他国へ出かけた。期限が過ぎても帰ってこないので、妻は思い余って池に身を投げて死んだ。その後、夫が戻ってくるが妻の死を知り、後を追って入水して果てた。世人これを哀れんで女夫池と呼んだという。
大阪市HP:大阪市:夫婦橋(めおとばし) (…>橋>橋梁顕彰碑) (osaka.lg.jp)
古地図からその痕跡を探ってみたいと思います。当初は南側の大川から今の扇町公園までだった堀川は1838年に北東方面に延長開削されます。その延長開削される前の明暦3年(1657年)の地図には夫婦池の記述ではなく、池が2つが天満商店街を挟むようにあります。智頭の左側が太閤秀吉がなくなった後に、開削完了した第1期工事での天満堀川です。
さらに、文化3年(1806年)に出版された「増脩改正攝州大阪地圖」での夫婦橋界隈は以下の通りです。
1本目の親柱
1本目の親柱はもとあった場所からやや離れますが、徒歩圏内です。
ここには錦地蔵尊があり、その東側に親柱がありました。錦という名前は、この地域の昔の町名から由来するようです。明治時代の地図をみますと、北錦町、南錦町などの地名を確認することができます。
管理されている地域の方々が観葉植物やら鉢植えが置いてあるので、近くまでいかないとそれがすぐ夫婦橋の親柱かはわかりにくいです。
2本目の親柱
2本目の親柱は、天満商店街(4丁目)沿いにありました。私は本当にラッキーでして、日も暮れて散策に疲れて帰路につくまえにせっかくだからと思い、安くて美味しい立ち飲み居酒屋にふらっと入った際に偶然発見しました。この時、通りからは障害物が置かれいて、見えなかったのですが、店内に入ってはじめて認識することができました!
2021年の11月くらいにオープンした、「庶民」という立ち飲み居酒屋さんです。京都にあるお店が一号店のようですが、お刺身などをはじめ、安い料理が人気で大阪市内でも、京橋界隈、梅田界隈の地下、そしてここ天満にもオープンしています。
もうおわかりになったでしょうか?夫婦橋の親柱があります。このアングルだと認識できますが、私が訪問した時には店外に段ボールがおかれていて、真正面からは認識できませんでした。実際にお店に入って、(許可をもらった後)色んな角度から撮影させてもらいました。
嬉しすぎます。親柱は草書・楷書でそれぞれ漢字とひらがな(4本)で刻銘されることが多いですが、こちらも錦地蔵尊のところにある親柱同様に漢字タイプの親柱ですね。ひらがなで刻銘された親柱もあれば、と思うところあります。
それでもよくざ時代の柱を保っておいてくださり、感謝感激でした。
最後に
役目を終えた社会インフラは撤去されてしまうのが常ですが、同じ場所に当時を懐古できるような説明書きや橋を彷彿させるデザインをしっかり残してくれている大阪市や地域の方々には感謝です。
またかつての親柱も場所は違えど、地域の方によってしっかり管理されているのは嬉しいです。夫婦橋の逸話はとても悲しいお話しですが、お二人が心の底から愛し合っていたからこそでしょうね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。