「h」型の運河の跡を探る

近代的な高層ビルがある京橋駅の南西方面にある大阪ビジネスパークこと、OBP。かつては陸軍砲兵工廠があった場所です。一方、京橋駅の南東方面、OBPの東側にある環状線のさらに東側、あるいは学研都市線の鴫野駅の西側には多くの集合住宅が林立しています。これだけの広い地域を確保できた背景には、工場か何かがあったに違いないと思い立ち、古地図を探るところから始まります。

きっかけ

なぜ「ここに細長い公園が続くのだろうか」(緑色枠部)、「なぜこの公園は妙な角度になっているのだろうか」(赤色枠部)と。付近を自転車で通っていて、何度も不思議に思っていたところでした。

地図でみても、公園がいびつな形になっていることことに興味を持ち調べてみることとしました。Google mapの地図でもそれを読み取ることができます。

今回の興味の発端となった公園は鴫野西第四町会児童遊園の正門です。いつ訪問しても園内の花がとても綺麗です。もちろん、ベンチや遊具もあります。

古地図を探る

過去を遡れるとたいていのことはわかりますが、実際には古地図以外にも地域の郷土史、具体的には図書館などへいって、この城東区の歴史について記載されている複数の書籍や記録などを確認していますが、まずはてっとり早い古地図から探ってみたいと思います。

明治41年(1908年)の古地図

左側は大阪の1/20000の地図です。この頃は田畑が広がっていたようです。

昭和9年(1929年)の古地図:1/25000

なにやら川筋のようなものが見えます。1/25000の地図ではかなり見難いのですが、川筋だと判断するに至ったものとして、橋らしいマークがあります。

インターネット上で参照できる古地図よりもさらに詳細な地図で確認しようと発起し、大阪市中央図書館にて1/10000の地図を複写コピーさせていただき、地図とにらめっこしてた後に推察が確信へと変わりました。

昭和9年(1929年)の古地図:1/10000

水路です、あきらに水路であることは明白です。京橋・鴫野界隈には今の多くの工場があるのは工場マークの数が物語っていますが、その中でも圧倒的な広い敷地であるがためか、「鐘淵大阪紡績工場」の記述も読み取れます。この頃はまだ学研都市線(当時は片町線)に鴫野駅はなかったようですね。

この頃はまだまだ水運が活用されていた時代、多くの資材や原材料の搬入、そして製品の出荷や搬出に水運が多く活躍したと思います。この水路を跨ぐ橋も確認できます。

かつての水路跡を今の地図にプロットしてみると、こんなところでしょうか?

昭和11年(1936年)の航空写真

写真左側は陸軍砲兵工廠、いわゆる軍需工場だっため、黒く塗りつぶされています。さて今回の水路は「h」の左下の部分が、1936年の時点ではすでに埋め立てられているようです。運河が大きく曲がるところは、三角形のような形になり、舟が向きを変える際に便宜が良いよう、広くなっています。

今の航空写真と対比してみると、なぜ鴫野西第四町会児童遊園の東側が斜めになっているかがわかります。

今の城見通のやや北側が運河だったことがわかります。

さてさて、この運河はいつまで存在したのかが気になります。

戦後(1945年~1950年)の航空写真

戦前は多くの建屋があった紡績工場界隈の建屋の数が一気に減っていますが、まだ運河は残っています。

1960年代の航空写真と地図

すでにこの頃になると、航空写真上でからも運河は確認できません。かつて工場だった場所は、住宅が立ち並んでいます。市の資料によると、戦時に多くの住宅を失った人が多く、戦後に増加する人口に対応するため、大阪市は鐘淵大阪紡績工場及びその関連工場の跡地に市営住宅を提供したとのことです。大阪も多くの空襲があり、焼夷弾により大阪市内の木造建築の多くは灰燼ときしました(若干幸運にも戦災を免れた地域や建物もありました)。均等に並んでいる住宅はまさに市が提供した公営住宅です。。それにあわせて学校もでき、また消防学校も確認できます。

1974~78年(昭和49年-53年)の航空写真

写真中央の児童遊園、かつての運河の曲がり角である斜め部分を残しており、遊園中央には円形の花壇らしきものも確認できます。

1979~83年(昭和54年-57年)の航空写真

消防学校があった場所は「鴫野コーポ」と呼ばれる4棟にも及ぶ集合住宅となり、その北側にも大阪市営鴫野住宅の工事がされています。戸建てベースの市営住宅の高層化の工事といえます。それだけ大阪市の人口もどんどん増えてきた時代でもありました。

最後に

 大阪市はかつて水都と呼ばれ、今の中央区や北区には豊臣政権下に掘られた堀、徳川政権下となった江戸時代に掘られた堀はあります。しかし明治時代以降、商業都市から工業都市へと変遷していく過程で、今の大阪城東区に残る城北運河やこの鐘淵工場界隈を巡った運河も掘られ、役目を終えて埋められていくことにまた時代の変化、移り変わりを感じます。

いびつな公園の形から気になって調べてみましたが、やはりそこには歴史がありました。次回はこの運河にかけられた橋に関する遺構について触れてみたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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