侍の代表格、高橋紹運の生き方

大友宗麟配下の武将の中で、立花道雪と並んで双璧だった高橋紹運、その壮絶な生き方を整理します。

【結論】この人ありて立花宗茂あり

信長の野望・創造より

管理人は、太閤秀吉が褒め称えた立花宗茂のことをまずブログで紹介しようと考えていました。しかしその前に、立花宗茂について触れる前に、実の父である高橋紹運のことを紹介せずして、記述するには鳥居をくぐらずに神社に参拝するのと同じくらい何か後ろめたいものを感じています。

「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」

「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」

立花宗茂を褒め称えた豊臣秀吉

岩屋城での玉砕

紹運は、豊前の大名、大友宗麟に仕えた武将で、豊前、筑前、肥前各地で周辺大名と戦います。1570年代後半の九州は、南は島津家、西は龍造寺家、そして大友家と、さながら九州三国志とも呼べる状況下にあり、その合間に中小の大名が領地を治めていました。

主君大友宗麟もまた優れた大名の一人でしたが欠点もあり、大友家の雷神と評された立花道雪(立花宗茂の義父)の反対を押し切った戦、耳川の戦いで島津家に大敗をしてしまいます。この戦で大友家の主な武将達の多くが戦死してしまい、大友家は急速に衰えていきます。もちろん、大勢力かつ優秀な家臣団を従える島津家の攻勢もあり、大友家はおいつめられます。島津家は肥前の熊と評された龍造寺隆信を沖田畷の戦いで破っており、九州の主要大名は島津家と大友家のみとなります。このころになると、豊臣秀吉は九州を統一すべく準備しており、弱まった大友家は豊臣秀吉と通じることでその援軍を待つような状態となりました。

 いよいよ島津家が大友家を下そうと目論み、九州を統一しようとすべく、岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上してきます。その軍勢は諸説ありますが、20,000から50,000であったようです。紹運は岩屋城の守将として籠城。この城は堅ろうな城というわけでもなく、むしろ防御に薄い城に配下わずか763名と共に攻め寄せる島津勢を迎え撃ちます。なぜ紹運はこの城に入ったのでしょうか。

紹運は敢えて島津勢が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城したのです。大友家の雷神と評された、立花道雪はすでに亡く、大友家の主将である紹運が敢えてこのような行動を取ったのは、島津勢に迂回されて立花城を衝かれるわけにはいかなかったからでしょう。立花城には紹運の実子、立花宗茂がいました。また最寄りの宝満城には、紹運の妻や次男の高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員(女・子供)もいました。援軍の豊臣勢が来援するまで紹運は自らを囮として徹底抗戦を図ったわけです。籠城軍は全員玉砕するも島津軍にも甚大な被害が出たため軍備を整えるため一時撤退します。寄せ手の島津勢はこの攻城戦で3,000名(他の説によれば4,300名ほど)近くが死傷。わずか763名の岩屋城の守備兵に対して、とても大きな損害です。軍備の立て直しに時間がかかり、結果として主家大友家・嫡男宗茂は豊臣軍来援まで持ちこたえる事に成功しました。

まさに武士の鏡

David MarkによるPixabayからの画像

寄せ手となる島津勢とて、勇名をはせる紹運を知らないわけでもなく、できることなら損害が大きい力攻めは避けたい、また紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度もしました。島津方の武将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中櫓の上から

「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」

と敵味方が見守る中で言い切ります。敵味方が聞こえる中で大声で言い放ったのでしょう。このとき、敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われています。下剋上、裏切りや鞍替えなども少なくなかった乱世にあって、紹運の考え方は真似したくてもなかなか真似できない真の侍であったからこそ、敵味方からも称賛の声が上がったのでしょう。配下の兵たちは一層鼓舞されたことでしょうし、寄せ手の島津勢からしても、招紹運の返答でさらに城内の士気が高まり、一枚岩となっている城を力攻めするのを躊躇うところもあったでしょう。

降伏勧告は計5回、寄せ手の島津勢から3回、味方である立花宗茂(実子)と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨でそれぞれ1回ずつ受けていましたが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っています。

こんな事できますかね。誰だって命は惜しいし、落ち目を見限るという選択肢もあったでしょうし、配下の兵たちの命を守るためにも戦国の世では城を明け渡すケースもあったわけですし、最前線から退くこともできたのにそれをしなかった。しかも味方からの勧告は希代の軍師、あの黒田官兵衛からであってもです。紹運なりに考えるところがあったのでしょう。

紹運の采配により、島津勢の攻撃は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗し、半月に及ぶ戦いの末、招雲とその配下763名は敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落しました。招雲はわずか39歳でした。

勇将の元に弱卒なし

Joachim HillsundによるPixabayからの画像

堅ろうな城というよりかは防御の薄い岩屋城にあって、紹運率いる763名が九州最大勢力だった島津勢に対して多大な出血を強いた背景には、紹運と一体感をもった兵士たちとの信頼があったのは間違いないでしょう。数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由として、下記のような史料があります。いずれも高い評価であり、侍として、また人として素晴らしく高潔な人物であったことが伺えます。

・文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり

・義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である

・賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば

『高橋記』

激戦だったことを示す史料としては下記のような記述があります。

終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし

『筑前続風土記』より

合戦数度に及びしかども、当城は究意の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり

北肥戦記

紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し

西藩野史

ただ籠城するだけでなく、時には城外にも打って出たことがわかります。

紹運に関する逸話・人物像

戦にも強く、義に厚く、有形無形の大切なものを守り抜いて討ち死に至った紹運、多くの史料からの逸話からもそれを読み取ることができます。

紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし

筑前国続風土記

希代の名将

ルイス・フロイスの本国宛の報告書

結婚が決まっていたのですが、度重なる戦で婚儀が延び、その間に結婚相手は疱瘡(らい病)を罹い、容貌が悪くなってしまいました。親族は破談を申し出たが、

私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない

二人の間には、二男四女(立花宗茂は長男)を設けています。

大友宗麟の双璧の一人、雷神と評された立花道雪の婿養子にはいるまえに、

 「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせた 

  短刀を与え、「道雪殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」

古今より、武士は親子、兄弟であっても敵味方にわかれて戦わなければならないときがあり、立花家の一員として、立花家に尽くすように言い聞かせ、もし実の親子が戦うときがあれば、立花家の一員として、高橋紹雲を討て、とまで言う。本当に子どもの幸せのことを考えていたのでしょう。

岩屋城を陥落させ、首実検が行われた際、寄せ手の島津勢の大将、島津忠長は地に正座し、諸将とともに涙を流し手をあわせてこう言ったそうです。

我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに

かような父の血を受け継ぐ立花宗茂

信長の野望シリーズより

立花宗茂の生き方、考え方は、この高橋紹雲にそっくりだと思っています。もちろん、武将としての器量はもとより、義に厚いことも含めて。さらにいえば、立花宗茂は養父、立花道雪の薫陶も受けていることから、希代の武将と言われた父をも超える武将になったのは歴史が証明しています。少しでもその生き方を学んでいきたいと思っています。

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