強く、カッコ良すぎる上司、親分、立花道雪

 管理人は戦国武将の中では、立花宗茂ファンであり、彼の生き方、考え方を整理したいと常々感じています。ただその前に、立花宗茂たる人物を形成したであろう関係者のことを事前に整理したく思っています。著名な関係者としては、立花宗茂の実の父、高橋紹運です。大友家の雷神・風神の双璧のうち、風神と評されてました。もう一人は岳父である立花道雪(雷神と評されました)であると思っています。実の父、婿入りした嫁さんの父(義父)、いずれも戦えば毛利家、龍造寺家、島津家、周辺の強豪大名、著名な武将達との戦にあっても、大敗することなく要所で敵を打ち破る強い武将です。一つ一つの戦いもまた整理したいのですが、本項では立花道雪の武士として、人として、上司として、見習いたいと思うところを整理したいと思います。

【まとめ】

整理すると以下のようなものです。

  • 総大将として戦えば無敗
  • 武勇だけでなく、智略、事前準備、機に応じて適切な采配
  • そのためには配下・部下をしっかり教育、育成し、激励・賞賛する
  • 主君、上司であっても「道」に外れたことについては、自らを捨ててしっかり諫言する
  • 他人への配慮、気遣いをかかせない
  • 配下、部下を信頼し、軍律に厳しい

戦えば無敗、古の兵法をもとにした戦法

北九州を中心に多くの戦をこなし、戦歴は大戦37回、小戦百余回、その中に軍事総指揮は主君・大友宗麟であった状況を除いて、自ら総大将となった戦いはほぼ無敗の戦績とのことです。これはすごいことです。主君大友宗麟とて凡庸な大名ではなかったと思いますが、それでも自らを過信し、部下の話を聞かず、誤った決断をしたことがあります(例、耳川の戦い)。一方で道雪が総大将だった戦はほぼ負け無しというすごい方です。

道雪は孫子の兵法の「奇正相生」を引用し、両腕となる家臣の由布惟信と小野鎮幸を招いて、下記のように言ったと伝わります。

軍勢を用いるには、先ず戦法を定め、勇武の勢と共に奇・正の変化をさせるがよい。お前達両名が替わる替わる奇・正の将となって自分を補佐せよ。凡そ戦というものは正法を以って引き分けとし、奇法を以って勝ちとする。それで、正法を行う者は江河のように渇れることがなく、奇法をよく行う者は天地にように無窮である。故に、奇・正両法を用いる者は戦って勝たないという事が無い。それで、今日から両名には正・奇の戦法を取って貰いたい。今日惟信が正軍の将であるなら、鎮幸が奇軍の将となり、明日はそれを替えるという様にせよ。副将には、薦野増時、米多比鎮久をそれぞれ当てよう

まとめると、

1、まず事前にしっかりと戦法を考える

2、王道となる正攻法と、奇策をもって挑む奇法、この2つを組み合わせる。

3、それぞれのタイミングで、正・奇を入れ替える

といったところでしょうか。なんとなくわかるような気がしますが、管理人には抽象的過ぎて理解できません。個々の細かい指示の前に、大枠の考え方を配下の武将に提示したのだと思います。

ただ、結果がそれを証明しており、常に奇策と正攻法を連携して、九州において常勝不敗とのことでした。その武勇は広く知れ渡るところとなり、かつて敵方だった毛利家の史料さえも、下記のような称賛をされています。

道雪は大友家に肩を比ぶる者なきのみか、隣国にも亦類少き士大将にて、智謀尭捷兼達し、堅を砕き、利を破り、奇正応変に過ちなく

陰徳太平記

今の言葉に変えるのであれば、「道雪は大友家の中ではトップの武将であり、隣国にも比べる対象となる将は少ないほどだ。智略を巡らし、いかなる状況下でも適切な判断をし、正攻法、奇策と臨機応変に動き、失敗しない(負けないというべきか。。。)といったところでしょうか。

また、その武勇は1000キロ以上離れた甲斐の虎こと、武田信玄にまで届き、下記のような逸話があると伝わっています。(現代語訳)

鎮西に戸次道雪という者がいて、戦に秀れているということを噂に聞くが、一度戦ってみたいが互いに遠く相離れているため、残念ながらその戦技を競うことができない

旧柳川藩儒者・笠間益三

一つ一つの戦いの采配について本項では割愛します。また整理していきたいと思いますが、すごい社長、上司のもとで働いてみたい、と思う方がいるのと同様に、今であれば立花道雪公はそのように憧れる存在になったかと思いますし、敵からは「あの立花さえいなけれれば・・・」と思わしめたことは間違いないかと思います。

上司への諫言

戦国の世はもとより、会社組織であっても上司の考えや意向に対して、疑念をもった場合であっても保身あまりに受け入れてしまったり、意見具申したいができずに断念するケースもあるでしょう。上司や上役の機嫌を損ねまいと忖度したいのが人情だと思います。これはいつの時代も同じでしょう。しかし、そうあっても言うべきことはしっかり言う、それが上司であれ、だれであれ、という強い筋を通す方というのはいつの時代にも少なからずいたでしょう。気骨あるそういった忠臣が狭量な主君や上司から手打ちにされたり、冷遇されてしまう時もあります。そういったケースを見るとますます躊躇ってしまい、主君や上司に何もいうまい、イエスマンでいようという空気になります。そういった際、結局は衆智を集めることができない状況になってしまいます。この道雪にいたっては強い信念のもとに主君(上司)である大友宗麟をしっかりと戒めます。

大友宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。毎日のように迷惑を掛けられた家臣は辟易し、大変困り果てた。これを聞いた道雪は、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、道雪はこれを鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省した

『萩藩閥閲録』卷六十一 桑原文書 小原隆言書状

徹底していますね。主君の愛玩の猿を鉄扇で叩き殺してしまうのです。きっと他の家臣はこれまで、「殿、おたわむれを・・・(勘弁してくださいよ)」と感じていたことでしょうし、猿にひっかかれたり、主君の御前のためにに来ている大切な服も破かれることもあったかもしれません。宗麟はそれが楽しかったのでしょうが、それを一蹴した道雪、すごい方です。暗愚な主君であれば、手打ちにされても文句はいえないくらいのことです。しかし、それをしっかり聞き入れた宗麟もやはり一角の大名だったと思います。

主君や上司も人である以上、完璧ではなく、時には間違えた判断、決断を下そうとしてしまう、もしくはそもそも「人の道」や立場にそぐわない言動へそれてしまうときもあるかもしれません。そうした時に、「殿、それは違いますぞ、〇〇のような案もございます、いかがでしょうか。」と意見具申してくれる部下がいることがどれほど心強いことか。自分は完璧ではない、忌憚なく考えをいってもらいたい、自分に過ちがあれば指摘してもらいたい、という常にオープンマインドな風土なり雰囲気、それを受け入れる度量がある上司ほど、懐の深い方でしょうし、部下の方もまた一層信頼をゆだねるでしょう。勘違いしてはいけないのは、意見具申した内容が必ず採用されるわけではないことです。ただ、いつもそのための扉は開いている、という状態にしておくことは大切なことだと思います。上司の立場として心がけておく点でいえば、仮に配下のものが提案、意見具申してきた内容を結果的に採択しなかった時であったとしても、そのアクションについて感謝し、採択しなかったことに関するフォローを忘れないようにしておきたいと思います。

また、宗麟が酒色に溺れている時に戒めた際、自身の考えを下記のように述べています。

たとえ折檻を受けても、主人の過ちを正すのが臣たる者の勤めである。我が身を恐れて自分さえよければ、他人はどうでもよいというのは卑怯である。自分の命は露ほども惜しくは無い。それより主人が世間の外聞を失う事が無念である

立花道雪覚書

常に捨て身といいますか、自分を捨てて(手打ちにされるリスクもありながら)まで、主君・上司の襟を正そうと務める、道雪の芯の強さが伺えます。

管理人の会社生活の中では、「私はいつも自分を捨てている」と公言していた責任者がいました。ここで捨てているのは保身のための自己利益のことでしょう。責任者として全体を率いる立場にあり、常に自分が全責任を負うという覚悟のような表現であったと私は当時とらえていました。会社生活ではそのような事を発言し、実行する経営者は非常に少ないと感じていますが、事実そうした方もおり、少なからずその人の考え方に触れる機会があったのは、とても恵まれたと思っています。

上司と話す機会を知恵を以て設ける

上司が話を聞いてくれない、タイミングがない、話したとしても受け入れてくれない、というケースもあるかと思います。道雪はそんな時、どのようにしたのでしょうか。やはり知恵によってそれを克服しています。また上司である宗麟の特性をよく理解していることもその前提にあります。(上司、主君の癖や特徴をよく把握しているのもまた重要な点ですね。)

宗麟は酒と女に溺れて国政を顧みず、忠勤の者を賞さずに罪ある者を罰そうとさえしなかった。道雪は危機感を持ち、宗麟に拝謁を申し出たが、宗麟は道雪が諫言しに来たと悟って会おうとしなかった。そこで道雪は京都から美人の踊り子を呼んで昼も夜も構わずに自分の屋敷で躍らせた。女好きの宗麟は堅物の道雪の行為に驚きながらも興味を持ち、自ら道雪の屋敷にやってきた。そこで道雪はようやく宗麟に拝謁する事ができた

楠戸義昭『戦国武将名言録』
楠戸義昭『戦国名将・智将・梟将の至言』

耳の痛い話や自身への苦言を聞きたくないと避ける宗麟に対して、道雪は政道を正すよう主君に忠言したい、そのために一策実施したということです。機会がなければ機会をつくれるよう、一計設ける道雪、すごいですね。顛末がわかった宗麟は、道雪への信頼がより一層強くなったことが伺えます。

人を育てる、部下を育てる

Keith JohnstonによるPixabayからの画像

人を育てる、というのはどの会社でも行われていることだと思います。(今の世にあっては人を使い捨てのようにする会社もありますが)部下が仕事をうまくできないのは、それは上司が悪いと自責に立ち返れる方はどれほどいるでしょうか。日本の会社で少なからず管理職をやっている方は、まずは一担当者として、非常に優れている方が多いと思っています。結果を出すための努力、自己研鑽、知恵と工夫を繰り返し、実績を上げてきたからこそ、昇進していることもあるかと思います。(もちろん、ある一定の昇格からは時勢、時の運、上司との関係などもあるかと思いますが)

道雪にいたっては、武士として結果(武功を上げられないのは)を出せないのは、本人のせいではなく、上役にその責任があると考えている方でした。もちろん、そのためにしっかり部下を教育、鍛錬させたのは間違いないかと思います。

武士に弱い者はいない。もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく、大将が励まさない罪による。我が配下の武士は言うに及ばず。下部に至っても武功の無い者はいない。他の家にあって後れをとる武士があらば、我が方に来て仕えるがよい。見違えるような優れ者にしてやろう

常山紀談

「見違えるような優れ者にしてやろう」という熱い上司、「我が方に来て仕えるがよい」とオープンな心、立花道雪の軍団が負け知らずだったのは、もちろん道雪はじめ、配下の武将の采配もあったかと思いますが、一人一人の兵たちも道雪のもとで、直接的もしくは間接的に育てられ、強い軍団になっていったことは容易に想像できます。

結果が出ない部下をしっかりフォローする

頑張っても結果が出ないときがあります。少なからず心は落ち込みますが、そういった部下の心へのフォローが素晴らしいと、次にまた頑張ろう!と腐らず頑張ることができます。とってつけただけのような言葉ではなく、具体的に自分の言葉でそれを伝えることが大切だと思います。部下をフォローアップした道雪から学ぶ逸話は以下の通りです。

武功の無い武士がいると「運不運が武功にはあるもの。そなたが弱い者でない事は、我が見定めている。明日の戦いに出る際、そそのかされて抜け駆けなどして討死してはならぬ。それは不忠というものぞ。身を全うしてこの道雪の行く末を見よ。お前たちを打ち連れているからこそ、かくのように年老いても敵の真ん中に出られ、怯んだ様子も見せないのだ」と言ってその武士と酒を酌み交わし、ある時は武具を与えたりもした

楠戸義昭『戦国名将・智将・梟将の至言』

兵たちは、戦でなんとか手柄をあげ、目をかけてくれた主君(上司)の期待にこたえたい、恩賞をもらいたい、一族の名に恥じない仕事をしたい、と奮起するも武功を上げられなかった部下をしっかりフォローする。こんな事言われたら本当に嬉しいですし、次こそはまた頑張ろう、という気持ちになります。武功を上げた部下は当然恩賞なり賞賛があるが、残念にも結果を出せなかった部下に対してもこうした言葉をかけ、酒を酌み交わしたり、武具を与えることができる器量、本当に素晴らしいと思っています。

部下を評価する、賛辞する

 人は褒められると、「いやいや、大したことではございません。」「やるべきことを果たしたまでです。」「上司、仲間、部下のおかげです」「運が良かったです。」と謙遜したり、恐縮する方もいるでしょう。直接的に本人を褒めるよりも間接的に褒めることのほうがより効果が高い、と何かの本で読んだことがあります。それは、後日口づてで本人にも伝わることでしょうし、本人の評価が他へ広がることは、それは嬉しいことだからでしょう。テクニックとしてそのような事を後世に生きる私たちは知ることができますが、道雪はきっと素の心で称賛していたのかもしれません(切れ者の道雪ですから、ひょっとしたらそれを認識したうえかもしれません、と考えてしまう私自身はまだまだですね。)。こんな逸話があります。

道雪の配下は次の戦いでは他に遅れまいとして勇み、その武者振りがいいと「あの者を見よ。この道雪の睨んだ目に狂いは無かった」と周囲にもわかるように賞賛・激励した。このため士卒は道雪のために命を惜しまずに働いた

楠戸義昭『戦国武将名言録』

この配下は、道雪のもとで強い武士へと生まれ変わった武士なのでしょう。他家あるいは異なる主君、上司に仕えていたが、武功上げられず、あるいは咎められたのかもしれません。道雪のもとでも結果が出なかった時もあったでしょう。それでもなお道雪のもとで励まされ、鍛えられ、見違える働きをしたからこそ、道雪は賞賛したのでしょう。きっと道雪自身も配下の成長ぶり、活躍ぶりを嬉しく思ったことは間違いないかと思います。一般的には、配下・部下を褒める時は皆の前で、叱責や小言を言うときは本人にだけ、というものもあります。

辛い時こそ、「私は常に先頭にある」、と部下を鼓舞する

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苦しい状況下であれば、もう逃げたい、ここにいたら死んでしまう、と考えるでしょう。命のやり取りをする戦場ではなおさらです。しかし大将が怯んでしまえば、軍は容易に瓦解していまいます。道雪の軍が苦戦した時はどのようにしたのでしょうか。

我を敵の中に担ぎ入れよ。命が欲しければ、その後で逃げよ」と道雪が下知した。しかし、家臣たちは日ごろの道雪への感謝から、そのようなことをせずに奮起し、敵に対して何度も槍を交えて、遂に追い返したという

楠戸義昭『戦国名将・智将・梟将の至言』

若い頃は武勇で鳴らした道雪は、35歳のころ落雷にあい、下半身が不自由になりました。晩年時には、家臣に手輿を担がせて自らは輿に座り、その上で指揮していました。下半身が不自由な道雪の輿を敵中に入れるということは、逃げることもできず、武勇で鳴らした道雪であっても討ち取られてしまうのは誰の目に明らかです。しかし怯む部下に対して、逃げるなら私を敵中へ置いてそれから逃げろ、という豪気溢れる発言、助かりたいという思いなど微塵もなく、先頭にあるということを示すこの発言、配下や部下を使い捨てるようなことをまったく感じないこの発言に大きく鼓舞されたことでしょう。

部下を許す、面子を守る

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粗相をしてしまった部下、不義を働いてしまった部下、当時であれば手打ちにされたり、その後の厳しい処置が考えられますが、道雪の場合は違います。

部下が粗相をしてしまった。客に失礼な事をしてしまった。部下は大勢の前で恥をかいてしまい自身の面目はもとより、その主君の顔をつぶしてしまったことを悔やむでしょう。しかし道雪はこういってのけるのです。

客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」と客に話し部下に恥をかかせなかった

ある家臣が道雪の侍女に密通して問題になったが、肝心の道雪は「若いのだから当たり前だ。色恋に迷ったからと言って誅殺するには及ばぬ。人の上に立って、君と仰がれる者が、ちょっとしたことで人を殺せば、人は君に背くもととなる。国の大法を犯したのとは違う」と述べて笑った。この言葉を聞いた家臣は、後に道雪を守りながら戦死したと伝わる。

楠戸義昭『戦国名将・智将・梟将の至言』

やってしまった本人、露見した当事者らは穴にも入りたいくらいの思いであったでしょうし、手打ちにされてもおかしくない状況下であっても、それを笑顔で許すことができる、そんな懐深い対応をされれば、配下は道雪のためにそれこそ身を投げうって尽くしたのは間違いないでしょう。

全体に影響することについては躊躇せず断罪する

なぁなぁの組織ではなく、厳しい規律、芯の通った組織には信賞必罰があるかと思いますが、道雪の決断は常人には厳しすぎるということも躊躇わず実行します。難敵である龍造寺家との戦の前にあって、敵前逃亡してしまった部下に対する仕打ちです。ここでは軍を引き締めるための目論見もあったかと思いますが、非常に厳しいものです。

一部の家臣が無断で陣地を離れて我が家へ戻った事を知った道雪は、直ちに追っ手を差し向け、その時追っ手に家へ帰った家臣のみならず、その親をも殺すよう命じた。家老たちが親までも殺すことはないだろうと諫めても「大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ」と言って取り合わなかったという。

非常に厳しい措置ですが、武士として筋が通っています。組織の規律も保てないなかで、道雪の戦にかける意気込みを感じます。決して優しさだけでなく、厳しさも当然必要であり、こうした点からも道雪の軍が個々はもとより、組織的活動や規律においても優れた軍勢であったことが伺えます。

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