自転車で散策した先は大阪市東成区中道四丁目。平野川西側で偶然出会った風景に、私は足を止めました。現代の住宅街の中に、まるで時が止まったかのように残る蔵造りの建物群。これらの建物は第二次大戦時の空襲による焼失を免れ、往時の姿を今に伝えています。今回は、この地域の歴史的背景について調査し、実際に訪問した際の印象と共に記録してみたいと思います。
中道地域の歴史的背景
江戸時代の中道村
東成区中道の歴史は古く、江戸時代には「中道村」として存在していました。この地域は、桃山時代の豊臣秀吉の時代に新開荘の荘名が廃止された後、大坂城代の松平領となり、のちには幕府の直轄領またはそれに準ずる扱いを受けていました。当時の東成の地は、大坂城の東を固める重要な位置にあり、米・麦・綿・菜種などの豊かな農産物を産出する農村地帯でした。
特に注目すべきは、平野川を通じた河内方面との水運の存在です。平野川は古名を「百済川」と呼ばれ、奈良朝より平安朝にかけて百済郡が置かれていたことからこの名が付いたとされています。この川は江戸時代を通じて水運が盛んで、寛永13年(1626年)頃から柏原舟が河内の柏原と大坂の八軒家の間を輸送水路として利用し、最盛期には70艘の柏原舟が上り下りしたと言われています。
暗越奈良街道との関係
中道地域は暗越奈良街道の要衝でもありました。平野川と暗越奈良街道とが交差する玉津橋は、交通の要所として賑わっていました。「津」という字は港を意味し、船着き場もあったことから「玉造の港」という意味で玉津橋の名称が生まれたと考えられます。このような交通の利便性から、大勢の人々が行き交い賑わいを見せていたのです。
蔵造りの建築について
商家の蔵の特徴
今回訪問した中道四丁目で確認できた蔵は、江戸時代から明治時代にかけて建てられた商家の蔵と考えられます。これらの蔵は、瓦葺で土壁に漆喰が塗ってある土蔵の形式を取っています。土蔵には、大切な家財道具や帳簿、商品などが保管されていました。
防火対策として、水に強い石や木で土台を造り、壁の厚さは30センチ程度で漆喰を塗り、土で扉の隙間を埋めて、中に火が入るのを防ぐ構造となっています。これらの建築技術は、火事の多かった大坂では延焼を防ぐために発達したものでした。
大阪建ての特徴

大阪の町屋建築には「大阪建(おおさかだて)」と呼ばれる特徴的な様式がありました。江戸の町屋が2階の壁面が1階より3尺(約1メートル)後退しているのに比べ、京阪の町屋は2階と1階の壁面がそろっている形式です。
今回訪問した中道地域で確認できた建物の中でも、特に写真2と写真3に写っている建物は、この「大阪建て」の典型的な特徴を示していると考えられます。これらの建物では、1階と2階の壁面が垂直に揃っており、江戸の「出桁造り」とは明らかに異なる構造を持っています。この建築様式は、限られた敷地を有効活用するための大阪商人の知恵と、防火対策としての実用性を兼ね備えたものと言えるでしょう。
戦災を免れた奇跡
大阪大空襲の概要
第二次世界大戦末期、大阪は1945年3月13日から8月14日まで、計8回にわたる大空襲を受けました。これらの空襲により、大阪府では死者12,620人、行方不明者2,173人という甚大な被害が出ました。特に3月13日深夜から14日未明にかけての第一次大阪大空襲では、274機のB-29が1,733トンもの焼夷弾を投下し、被災家屋は13万6千戸を数えました。
東成区の被災状況
東成区も空襲の被害を受けた地域の一つでした。6月7日の大空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と兵庫県尼崎市に被害を及ぼし、東成区も含まれていました。しかし、中道四丁目の平野川西側地域は、幸いにして空襲での焼失を免れることができました。
この地域が戦災を免れた理由については明確な記録は残っていませんが、軍需工場や重要施設から離れた住宅地であったこと、また偶然にも焼夷弾の投下範囲から外れていたことなどが考えられます。
戦前から現在への変遷
戦前の航空写真から読み取る町割り
戦前の中道地域航空写真

※戦前の航空写真。平野川の流路と密集した住宅地が確認できます。現在の町割りの基盤となった時代の貴重な航空写真です。
この戦前の航空写真を見ると、現在の中道地域の町割りがすでに形成されていたことが分かります。平野川が蛇行しながら流れ、その両岸に密集した住宅地が広がっている様子が確認できます。特に注目すべきは、建物の配置が現在とほぼ同じパターンを示していることです。これは、江戸時代から続く土地利用の連続性を物語っていると考えられます。
戦後の航空写真(1945年頃)

※戦後間もない頃の航空写真。戦災の影響と復興の様子が読み取れます。中道地区周辺は空襲、焼夷弾の影響からか、灰燼に帰していると思われる地域も散見されます。
現在の町並みから読み取る歴史

実際に自転車で訪れた際、現代の住宅に混じって点在する蔵造りの建物は、まさに「生きた歴史」を感じさせるものでした。これらの建物は個人宅として現在も使用されており、住民の方々によって大切に維持されています。
大阪建ての特徴を示す蔵造り建物

2階と1階の壁面がそろった「大阪建て」の典型例。漆喰壁と瓦屋根が美しい伝統建築
大阪建て様式の町家建築

新旧の建築が混在する現在の中道地域の様子
こちらも大阪建ての特徴を持つ建物。江戸時代から続く建築様式の継承が見られます
実際に自転車で訪れた際、現代の住宅に混じって点在する蔵造りの建物は、まさに「生きた歴史」を感じさせるものでした。これらの建物は個人宅として現在も使用されており、住民の方々によって大切に維持されています。
建物の外観からは、漆喰壁の質感や瓦屋根の重厚さ、そして時代を経た木材の風合いなど、近代建築とは明らかに異なる特徴を確認することができました。
混在する新旧の街並み

現代住宅と伝統建築が混在する現在の中道地域の様子
塀に囲まれた個人宅

プライバシーに配慮された住宅の外観。現代の生活に適応した利用方法
伝統建築と現代建築の対比

一つの街区の中に見られる時代の異なる建築様式の共存しており、同じ地域内の現代的な住宅
地域の街並み全体

中道四丁目の現在の街並みの全体的な雰囲気
都市開発と歴史保存の狭間
この地域は、大阪市内という立地条件から都市開発の波にさらされる可能性も高いと思います。実際に、周辺では新しい住宅やマンションの建設も進んでおり、歴史的建造物と現代建築が混在する独特の景観を形成しています。このような状況は、都市の発展と歴史保存という課題を象徴的に表していると感じています。
地域の歴史的価値
水運文化の遺産
平野川沿いのこの地域は、江戸時代から続く水運文化の重要な遺産と考えられます。現在の平野川は典型的な掘り込み河川となっていますが、かつては舟運で賑わっていた歴史を持ちます。中道地域の蔵造りの建物群は、このような水運を基盤とした商業活動の繁栄を物語る貴重な建築遺産と言えるでしょう。
庶民生活史の証人
これらの建物は、戦前から戦後にかけての庶民の生活史を伝える貴重な証人でもあります。大きな歴史的事件や政治的変化だけでなく、日常生活の中で営まれた商業活動や家族の営みを今に伝えています。
今後の課題と期待
文化財としての評価
現在、これらの建物群が文化財として正式に評価・指定されているかは定かではありませんが、その歴史的価値は十分に認められるべきものと考えています。建築的特徴、歴史的背景、戦災を免れた希少性などを総合的に評価すれば、地域の重要な文化遺産として位置づけることができると思います。
地域住民との協働
何より重要なのは、これらの建物を実際に所有し、維持管理されている地域住民の方々の理解と協力です。歴史的価値の保存と現代生活の利便性を両立させるためには、行政や専門家と住民の方々との継続的な対話が必要と考えられます。
まとめ
大阪市東成区中道四丁目で偶然出会った蔵造りの建物群は、江戸時代から続く地域の歴史と、戦災を乗り越えた人々の営みを静かに物語っています。平野川を中心とした水運文化、暗越奈良街道の交通の要衝、そして大阪特有の商業建築の発展など、多層的な歴史が重なり合って形成された貴重な文化遺産と言えるでしょう。
現代の都市開発の波の中で、これらの歴史的建造物がどのような形で未来に継承されていくのか、今後も注目していきたいと思っています。また、このような身近な場所に残る歴史の痕跡を発見することの喜びと意義を改めて感じた散策でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回の写真は2021年5月、管理人が大阪に在住していた際の写真です。ブログ公開日が2025年9月末なので当時から4年も経ってします。今現在、どのようになっているかは当地を訪問する以外に確認することはできないのですが、歴史ある建造物が保たれていることを願っています。
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