パナソニックのテレビ事業への巨額投資とその失敗を時系列で整理し、経営陣の判断ミスを検証したいと思います。茨木工場、尼崎工場(3工場)、姫路工場と相次いで閉鎖された工場群は、単なる事業の失敗ではなく、経営者の戦略的思考の欠如と責任逃れの象徴だと考えています。
プラズマテレビ投資の始まり:中村邦夫社長時代(2000-2006年)
「ブラックボックス戦略」という名の過信
中村邦夫氏が社長に就任した2000年は、デジタルテレビ普及の始まりでした。この時期、中村氏は「ブラックボックス戦略」なるものを打ち出し、主要デバイスから完成品まで自社で一貫生産する垂直統合モデルを推進しました。
1996年に世界初のプラズマテレビ「プラズマビュー(TH-26PD1)」を発売していたパナソニックは、この技術的優位性に固執し、2000年10月には松下プラズマディスプレイ製造(現・パナソニック プラズマディスプレイ)を設立しました。
初期投資の規模
2001年6月から本格的なプラズマディスプレイパネル(PDP)の国内量産を開始した段階で、すでに相当な投資が行われていました。茨木工場には第1工場(1958年から稼働、月産3万台)に加えて、2004年4月には第2工場(月産12万台)を新設するなど、生産能力拡大に邸進していました。
しかし、この時期から液晶テレビの技術向上と低価格化は始まっており、「大画面はプラズマ、小型は液晶」という棲み分けが将来的に続くという前提自体が楽観的すぎたのではないかと思われます。
中村氏の経営判断の問題点
中村氏は後のインタビューで「私はプラズマテレビを育てたいと思って、それに賭けた。でもこれほど技術革新が進み、液晶が大型化するとは読みきれず、失敗に終わってしまいました」と語っています。
しかし、これは明らかに弁解に過ぎません。技術の進歩を読み切れなかったのは経営者として致命的な判断ミスです。しかも、当時の組合集会では「技術面や量産性で近い将来は液晶に席巻される」との否定的意見が組合員レベルで既に出ていたのです。現場の声を無視し、独断専行した結果がこの惨状だったと言えるでしょう。
過度な投資継続:大坪文雄社長時代(2006-2012年)
中村氏の院政下での傀儡経営
2006年6月に中村氏が会長に退き、大坪文雄氏が社長に就任しましたが、実質的には中村氏の院政が続いていました。この時期こそが、パナソニックのテレビ事業にとって最も致命的な投資継続期間だったと考えています。
尼崎工場への過剰投資

大坪社長時代の最大の失敗は、尼崎工場への継続的な巨額投資でした。関西電力尼崎第二・第三発電所跡地などに建設された尼崎工場には、最終的に約4,250億円もの投資が行われました。これは「パナソニックが生産停止する工場としては、過去最大の投資額」となっています。
尼崎工場の構成:

- 第3工場:2014年3月末で事業活動停止
- 第4工場:2014年3月末で事業活動停止
- 第5工場:2014年3月末で事業活動停止
市場環境変化への対応失敗
この時期、既に液晶テレビの大型化と低価格化は明確な流れとなっていました。サムスンやLG電子といった韓国メーカーは、プラズマテレビも手掛けていましたが、市場動向を見極めると液晶への軸足移動を躊躇なく実行しました。
一方、パナソニックは技術への固執と投資回収への焦りから、明らかに劣勢な戦いを継続し続けました。これは経営判断として完全に間違っていたと思われます。
大坪氏の経営能力への疑問
大坪氏は中村氏の後継者として選ばれましたが、実質的には中村氏の方針を踏襲するだけの傀儡的な存在だったと言えるでしょう。独自の経営ビジョンや戦略転換を打ち出すことなく、既定路線を継続した結果、傷口を拡大させ続けました。
「イタコナ」に見る大坪氏の経営センスの欠如
大坪氏の経営者としての無能ぶりを象徴するのが、「イタコナ」への異常な執着でした。イタコナとは単なるハードウェア部品の分析手法ですが、大坪氏はこれを徹底的にバラバラに分解することに熱中し、各事業場にはイタコナに関する展示コーナーまで設けるという、まさにタダのハード屋レベルの取り組みを全社展開しました。
このイタコナへの執着は、大坪氏の経営者としての視野の狭さを如実に表しています。本来であれば、テレビ事業の赤字拡大や市場環境の激変に対する戦略的対応に集中すべき時期に、部品分解という技術者レベルの作業に経営資源を割いていたのです。
当然ながら、このイタコナの取り組みは経営にはほとんど貢献することなく、パナソニックの業績改善には何の効果ももたらしませんでした。むしろ、経営陣の関心が本質的な課題から逸れることで、適切な経営判断の機会を逸する結果となったと考えられます。
功績皆無の傀儡社長
大坪氏の6年間の社長在任期間を振り返ると、ポジティブな実績や成果は皆無だったと言わざるを得ません。プラズマテレビへの過度な投資継続、三洋電機買収の混乱長期化、そして最終的な巨額赤字の計上と、すべてが負の遺産ばかりでした。
イタコナのような表面的な取り組みに時間と資源を浪費する一方で、真に必要だった事業構造の転換、競合他社に対する戦略的対応、そして早期の損切り判断を実行することができませんでした。
2012年2月に2012年3月期連結決算で過去最悪となる7,800億円の巨額赤字見通しを発表した時点で、もはや手遅れの状況でした。
出血を止めきれなかった津賀一宏社長・会長時代(2012-2021年)
遅すぎた損切り判断
2012年6月に津賀一宏氏が社長に就任した時点で、プラズマテレビ事業の継続は既に不可能な状況でした。津賀氏は「出血を止めた経営者」とも評されますが、その判断は中途半端であり、完全な撤退を決断するまでに更なる時間と損失を重ねました。
プラズマ撤退の決断と実行
津賀氏は2013年12月にようやくプラズマディスプレイパネル(PDP)の生産終了とプラズマテレビ事業からの撤退を発表しました。しかし、この決断は市場情勢から見れば5年は遅すぎました。
プラズマ事業撤退のタイムライン:
- 2011年10月:茨木工場でのプラズマテレビ組み立て製造停止
- 2012年3月:茨木工場第1・第2工場での生産完全停止
- 2013年12月:プラズマ事業からの完全撤退発表
- 2014年3月:尼崎工場3工場の事業活動停止
液晶事業の中途半端な継続
津賀氏のもう一つの大きな失敗は、液晶テレビ事業を中途半端に継続したことです。プラズマから撤退した後も、姫路工場での液晶パネル生産を継続し、テレビ向けから車載・産業分野向けへの転換を図りましたが、これも結局失敗に終わりました。
2019年11月21日、パナソニックは液晶パネル事業からの完全撤退を発表し、2021年をめどに姫路工場での生産を終了することを決定しました。この時点で、また巨額の損失を計上することになったのです。
津賀氏の戦略的判断力不足
津賀氏は確かに出血を止めましたが、それは「応急処置」に過ぎませんでした。根本的な事業構造の転換や、早期の完全撤退による損失最小化を図ることができず、ずるずると延命措置を続けた結果、最終的な損失額を拡大させました。
また、津賀氏時代の人事も問題で、中村時代からの側近を重用し続け、真の組織改革を実行できませんでした。これは現在の楠見体制にも引き継がれている構造的問題だと考えています。
工場閉鎖の全貌と巨額損失
閉鎖された工場群
パナソニックのテレビ事業過度投資の失敗は、以下の工場閉鎖という形で具現化されました:
茨木工場(大阪府茨木市)

- 第1工場:1958年から2012年3月まで稼働(月産3万台)
- 第2工場:2004年4月から2012年3月まで稼働(月産12万台)
- 2014年に工場敷地約12万平方メートルを売却、大和ハウス工業が7万平方メートルを取得
- 跡地にヤマト運輸関西ゲートウェイを建設

かつてはその敷地、全てが松下電器・パナソニックの工場でしたが、プラズマテレビの失策に伴って長年テレビ事業を支えてきた歴史ある茨木工場はまず半分が切り売りされ、そして最新の地図をみるとその全てを失ったかのようです。跡地には、ヤマト運輸・Amazonの倉庫、など物流関連の用地に利用されていることをみると、総額1兆円近く投じた(その他関連企業含む)ブルーヨンダーが物流系のSaaS会社であることはなんとも皮肉のようです。
尼崎工場(兵庫県尼崎市)

- 第3工場:2014年3月末で事業活動停止
- 第4工場:2014年3月末で事業活動停止
- 第5工場:2014年3月末で事業活動停止、2015年10月末に売却
- 第5工場跡地:物流施設「HUB AMAGASAKI(現ロジポイント尼崎)」に改修
- 第3・第4工場跡地:ESR尼崎ディストリビューションセンターを建設
かつて、PDPの専門工場として建設され、その後取り壊れてこちらも物流系の用途に特化した建屋に置き換わっているのもソフトウェアの会社であるブルーヨンダーの買収と比較してこれもまた非常に皮肉のように感じます。
姫路工場(兵庫県姫路市)

- 2008年8月:テレビ向け液晶パネル生産開始
- 2016年:テレビ向け生産終了、車載・産業分野向けに転換
- 2021年:液晶パネル事業完全撤退により生産終了
投資額と損失の実態
報道によると、パナソニックは2000年代半ばから5,000億円以上をプラズマテレビ事業に投じました。工場別の具体的な投資額は以下の通りです:
各工場への投資額詳細:
- 尼崎工場全体:約4,250億円(3工場合計)
- 第4工場:約1,800億円
- 第5工場:約2,100億円
- 第3工場:推定約350億円
- 姫路工場:約2,350億円
- 茨木工場:推定約500-700億円(第1・第2工場合計)
工場の規模と生産能力:
- 全工場の総敷地面積:約67万平方メートル超
- 全工場の延べ床面積合計:約100万平方メートル超(推定)
- 最盛期総従業員数:約6,000-8,000人規模(全工場合計、推定)
- プラズマテレビ最大生産能力:年間約1,500万台(42インチ換算)
これらの投資は以下の形で損失として計上されました。PDP部門への失策が全てのものではありませんが、大坪社長時代には、サンヨー買収後ののれんの償却(高値づかみ)など含めて、松下・パナソニックの歴史上で最悪ともいえる赤字金額が2年連続で続きました。
- 2011年度:最終赤字7,721億円
- 2012年度:最終赤字7,542億円
- 2年連続で計1兆5,000億円超の赤字
特に注目すべきは、尼崎第5工場がわずか2年間(2009年11月-2011年10月)しか稼働せずに2,100億円の投資が無駄になったことです。この工場は「PDP工場としては世界最大」の規模を誇りながら、フル稼働に至ることなく閉鎖されました。
すでに負け戦であることはわかっていたと思いますが、中村氏の絶対王政、院政下では投資を継続すること諫めることができなかったのでしょうか。あるいは投資判断に反対しようのものなら、左遷されてしまったそれまでの中村絶対王政(大坪氏は傀儡とみてよいでしょう)下のもとでは、すでにYesしか言わなくなったサラリーマン役員しかいなかったのでしょうか。残念なことです。
地方自治体への影響
工場誘致のために補助金を出していた地方自治体からは「工場誘致で払った補助金返せ」との声も上がり、企業の社会的責任という観点からも大きな問題となりました。松下電器あらためパナソニックは、中村氏の体制になってからすでに松下幸之助翁の理念を失ってはいましたが、これもまたかつての松下ではありえなかったことでしょう。
経営判断の失敗要因分析
技術至上主義の弊害
パナソニックの最大の失敗は、技術的優位性への過度な信仰ではないでしょうか。確かにプラズマテレビは大画面での画質において液晶を上回る性能を持っていましたが、市場が求めていたのは画質よりもコストパフォーマンスだったと思います。
消費者の購買行動を軽視し、技術者目線でのモノづくりに固執した結果、市場のニーズとのギャップが拡大し続けました。
意思決定プロセスの硬直化
中村氏の独裁的な意思決定プロセスも大きな問題だと思います。現場からの異論や市場からのシグナルを無視し、一度決めた方針を変更することができませんでした。
特に中村氏は「中村絶対王政」と呼ばれるほどの独裁体制を築き、意見を異にする役員を徹底的に排除しました。このような組織風土では、正しい情報が経営陣に上がらず、適切な軌道修正が不可能になります。創業者のように、「君はどう思う?」と相手に意見や知恵を求めるそれとは真逆であり、持論への反論を許さない風土があったのではないでしょうか。
競合他社との戦略的思考の差
東芝は同時期に薄型テレビ事業を水平分業モデルに切り替え、液晶パネルなどを外部調達する方針に転換しました。2011年には薄型テレビ事業とパソコン事業を統合し、テレビ事業の「出血」を最小限に抑えました。
サムスンやLGなどの韓国メーカーも、プラズマテレビを手掛けていましたが、液晶の需要が多いと判断すると躊躇なく軸足を移しました。日本メーカーとの意思決定の速さとドラスティックな事業転換能力の差が明暗を分けたと言えるでしょう。
沈没コスト(サンクコスト)の罠
既に多額の投資を行っていたため、「これまでの投資を無駄にしたくない」という心理が働き、更なる投資継続という悪循環に陥りました。これは典型的な沈没コストの罠であり、合理的な経営判断を阻害しました。
三氏の経営責任と後世への教訓
中村邦夫氏:戦犯筆頭の責任
中村氏は明らかに今回の失敗における「戦犯中の戦犯」だと思っています。プラズマテレビへの過度な投資を決断し、現場からの反対意見を無視して独断専行を続けた責任は重大です。
2020年の週刊現代のインタビューでも「無責任にも聞こえる発言」をしており、自らの経営判断への反省が全く感じられません。しかも、2020年11月11日には旭日大綬章を受章し、「V字回復を成し遂げることができた」などとコメントしていますが、これは厚顔無恥と言わざるを得ません。数千億円の投資を無駄にしました。本来、その他の事業に投資する選択肢があり、V字回復というのは、所詮局所的でありながらも、辞退することもそのまま受領していました。
教訓の一つとして、経営者たるもの「厚顔無恥」であることは大きな要素なのかもしれません。
大坪文雄氏:傀儡経営者の責任
大坪氏は中村氏の院政下で傀儡的な役割を果たしましたが、それでも最高経営責任者としての責任は免れません。独自の戦略的判断を下すことなく、既定路線を踏襲し続けた結果、傷口を拡大させました。
特に、イタコナという単なるハード部品の分析に異常に執着し、全社にその展示コーナーまで設置するなど、経営者として取り組むべき課題を完全に見誤っていました。このような技術者レベルの作業に時間を割いている間に、テレビ事業の赤字は拡大の一途を辿り、競合他社との差は開く一方でした。
経営者として必要な「戦略転換の勇気」を持てなかった点で、中村氏と同様の責任があると考えています。6年間の在任期間で何一つポジティブな成果を残せなかった事実は、経営者としての資質の欠如を物語っています。従来であれば、社長を退いた後は、そのまま会長となるのが常でしたが、よほどの無能かつ会社に与えた被害が大きかったのか、会長に椅子に座ることもなく、顧問役となりました。
中村氏の傀儡としての仕事はしっかりやってのけた、というサラリーマンとしての処世術としては皮肉もこめて素晴らしいと思うところあります。中村氏に反論なども挟むことなく、犬のような従属者でいたからこそ務まったのでしょう。
津賀一宏氏:中途半端な改革の責任
津賀氏は確かに出血を止めましたが、その対応は後手後手に回り、完全な戦略転換を実行できませんでした。プラズマ撤退の判断が5年遅れ、液晶事業も中途半端に継続した結果、損失を拡大させました。
テレビ・液晶事業も中途半端に延命させ、結果的に負債となった結果として、次の社長である楠見社長時代に大きな損失とともに清算されました。中途半端な処置をせず、抜本的な処置が必要であったことを教訓として残してくれているのではないでしょうか。
後世への教訓
この三氏の失敗から学ぶべき教訓は以下の通りです:
- 技術至上主義の危険性:技術的優位性だけでは市場で勝てない
- 意思決定の透明性:独裁的経営は組織の判断力を奪う
- 戦略転換の重要性:沈没コストに囚われず、早期の方向転換が必要
- 現場の声の尊重:組合員レベルの意見にも耳を傾けるべき
- 経営責任の明確化:失敗した経営者は明確に責任を取るべき
結論:創業理念を踏みにじった無能経営陣
松下幸之助氏の理念への背信
松下幸之助氏は「人を大切にする経営」「企業の社会的責任」を重視していました。しかし、中村・大坪・津賀三氏の経営は、この創業理念を完全に踏みにじるものでした。
巨額の投資失敗の責任を従業員に転嫁し、工場閉鎖により多くの雇用を奪い、地域社会にも大きな迷惑をかけました。これは創業者の理念とは正反対の経営だったと言えるでしょう。
経営者としての資質への疑問
三氏に共通するのは、経営者として最も重要な「責任を取る勇気」の欠如です。巨額の損失を出しながら、誰一人として明確な責任を取らず、言い訳や弁明に終始しました。
特に中村氏が叙勲を受けたことは、失敗した経営者が何の責任も取らない日本の企業風土の象徴として、強い憤りを感じています。
現在への影響と今後の課題
この三氏の失敗は、現在の楠見体制にも影響を与えています。津賀氏から楠見氏への人事も、結局は内部昇格による継続性重視であり、真の改革には程遠いものでした。
パナソニックが真の再生を遂げるためには、まず過去の失敗に対する明確な総括と責任の所在を明らかにすることから始めるべきです。そして、創業理念に立ち返り、従業員と社会を大切にする経営を取り戻すことが必要だと考えています。
最後に
5,000億円を超える巨額投資の失敗は、単なる事業の失敗ではありません。経営者の判断ミス、組織の硬直化、そして責任逃れの企業文化が生み出した人災です。
中村・大坪・津賀三氏の経営は、後世に語り継がれるべき「失敗事例」として、多くの教訓を残しました。二度とこのような無責任な経営が繰り返されないよう、我々は厳しく監視し続ける必要があると思っています。
関連する過去の記事として、パナソニックの経営問題については「時代が違う」という言い訳は通用しない – パナソニック経営陣の無能②でも詳しく論じていますので、併せてご参照ください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。