義に厚く、武は無双 立花宗茂

時代は戦国、豊後(大分県)の大名、大友宗麟の双璧と呼ばれた、立花道雪を義父(立花家の時期当主として婿入り)とし、高橋紹雲を岳父とする、立花宗茂公(以降、宗茂と記述しますね)について整理します。この二人の父らも素晴らしい武将であり、この二人あっての宗茂であるのは間違いないかと思います。当時の武将らの中で、大多数の考え方とは異なる芯の強さ、武士としての義を貫く考え方、そして戦においても怯まず、果敢な活躍、全てが心をひきつけられるところがあります。武将としての戦績の詳細を一つ一つ整理したいのですが、本項では宗茂が、「義」の人、「武士の中の武士」といわれる色んなエピソードについて、管理人の所見も交えて紹介したいと思います。世の偉人と呼ばれる人たちが、なにゆえにそう呼ばれるかとの理由の一つに、当時の常識や一般的な考え方とは異なるアクションを実施し、大成した、もしくは人々の記憶に残る活躍をしたからこそだと思いますが、宗茂に関してもそう思われるところがたくさんあります。後世に生きる私たちはそのなかで少しでもそうした点を学んで役立てたいと感じています。個人的には大河ドラマテーマの候補筆頭格だと思っています。

まとめ:ここが凄いぞ!立花宗茂

・敵・味方からも称賛される戦上手の「武神」。少勢でも怯まず大勢に勝利

・有益/実利よりも、「忠義」「信義」「義理」で意思決定を行う

・「俺が」「俺が」と自身の売り込みをせず、謙虚で慎み深い

・相手が誰であれ媚びず、功あっても驕らず、仲間や領地民を大切にする

・関ケ原の戦いで西軍に与して改易されたが、その後同地へ復易した唯一の武将

人物評定

立花宗茂がどのような人物だったのか、本人の実績、言動についても整理しますが、第三者からどのように評されていたのでしょうか。

宗茂の主君、大友宗麟が豊臣秀吉に宗茂について紹介する際には、

義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう

海音寺潮五郎『武将列伝』

九州でその武名が知れ渡っている宗茂に対して、豊臣秀吉の直臣として取り立てて欲しいと、大友宗麟が推挙したのでしょう。優秀な武将をすぐ手元に置きたがる(豊臣性も与えたがる)秀吉の特徴を知っていたがためか、それを見越して推挙したのかもしれません。自軍の優秀な武将を他の主君へ差し出してしまうのはなかなか出来ることではありませんが、そうすることで大友家を守ろうとしたのかもしれません。

宗茂の実の父、高橋紹雲が岩屋城で、寄せ手島津勢(諸説あるが、20,000から50,000の大軍)を相手に、わずか800名にも満たない軍勢で防戦し、玉砕しました。宗茂は九州を平定せんと兵を向けている援軍となる豊臣勢が到着する前から反撃を開始し、奪われた2つの城を奪還し、さらには敵の城をも攻略します。その後豊臣勢と合流した際にはその先鋒として、島津勢の城を次々と攻め落とします。その功あって、大友宗麟配下の宗茂を筑後国は柳川で13万2000石の大名としてとりたてます。その秀吉はこのように評したそうです。

その忠義も武勇も九州随一である

(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)

豊臣秀吉が北条氏を滅ぼさんと小田原の役にて、秀吉は全国の並居る諸将の前で、宗茂を紹介します。

東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双

『名将言行録』

徳川家康配下の本多忠勝もまた武将として負け無しの強い武将ですが、いわゆる「武将」としては並ぶところかもしれませんが、大名になった後の意思決定、諸将に印象を深く与えた働きぶり、義を第一とした人付き合い、領地経営諸々含めて、管理人個人的には宗茂を推したいです。

豊臣秀吉が海外の「明(明王朝時代)」を手に入れんと始まった「文禄の役」では、将である宗茂自身も刀を振るうような激戦の中で、騎馬まで血塗れとなり、刀は歪んで鞘に戻せなくなったほどで、敵・敵将を討ち取った武功も兼ねて、以下のように評されてします。

鬼神も敵す可らざる御功績もあり

甫庵太閤記

軍列として共に戦っていた名将として誉れ高い小早川隆景も、こう評価しています。

立花家の3,000は他家の1万に匹敵する

『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)
『柳川藩叢書 第一集』

宗茂の活躍を知った秀吉は、感謝状を贈り、絶賛します。

日本無双の勇将たるべし

『川上久国雑話』

『名将言行録』では宗茂のことをこのように記しています。

人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり

『名将言行録』

義に重きを置く

豊臣秀吉公の恩顧に報いる

事の大小問わず、宗茂が義に重きを置く考え方や意思決定で代表的なものは日本の東西を分けた戦史上で、非常に有名で大規模な戦いであった「関ケ原の戦い」です。豊臣秀吉の遺言を反故にし続けた徳川家康、それに危機感を覚えた石田三成が画策し、主に西国の大名達で形成される西軍、徳川家康を中心とした東国の大名達で形成された東軍との衝突です。「関ケ原の戦い」その中でも代表的・大規模な戦ですが、実際には日本全国で豊臣方、徳川方と分かれて各地で戦がありました。

どちらにつくかでお家の存続が分かれる中、立花家内でも評定が行われます。ここで大友氏・立花氏に代々仕えてきた家老の薦野増時は、時勢をわきまえ東軍に与するべきと進言を行います。ちなみに、薦野増時は立花道雪の与力からはじまり、その後道雪の副将・軍師・参謀の一人として、数々の戦に参加し、その戦略と武勇をいかんなく発揮してきた名将であり、父の代から仕えてきた大友家からは、「属大友家、戦功多くて感状数十通あり」と評されており、また薦野増時自身に至っては、冷静沈着にして勇猛果断です。まさに文武の優れた名将として立花家の家老として支えてきました。家老となっていた薦野増時は東軍に属することを主張するのは、この戦国の時代の中で、主家のための進言としては非常に的を得た内容であったといえるでしょう。また立花道雪の娘であり、宗茂の正室であった誾千代も西軍への参画を反対していたようです。

しかし、宗茂の決断は西軍に与するというものでした。

「この柳川13万2千石は、誰からいただいたものか、他ならぬ太閤秀吉公から拝領したもの、時勢が徳川殿にあるのはわかる。しかしここは太閤様の御恩に報いるため、そして秀吉公からの約束を反故にする徳川殿には味方できぬ。わが立花家は豊臣家へお味方するのが武士としての道理であろう!」と述べたのでしょう。

福島正則、加藤清正などの有名な武将をはじめ、徳川方には豊臣家恩顧の武将も多くいる中で、豊臣方へ味方する宗茂の胸中にはどのようなものがあったのでしょうか。石田三成は優秀でしたが、その他の武将への評判が良くなく、三成憎しとしている武将も多く、むしろ三成が豊臣の名のもとにわが物にしている、という勝手な解釈をしたのかもしれませんし、やはり時勢が徳川にあると思っていたのかもしれません。

 宗茂自身も、戦を画策した石田三成、そして西軍副将となっている宇喜多忠家と仲が良いわけではなかったようですが、そうした私情を入れずに恩義に報いるべく西軍に与した宗茂は素晴らしいです。

宗茂は九州の柳川の小大名でしたが、4,000名を超える軍勢を組織し、東へ向かいます。兵站などもあり、自領地にも一定程度は残しておく必要があるため、常識的には1,200名~1,300名くらいの動員が妥当だったはずですが、日和見しない宗茂の意気込みが動員数からも伝わってきます。

東への参陣に向けて進軍中の宗茂に徳川家康から書状が届きます。家康とて抜け目がありません。自軍の敵に回ったらやっかいであり、逆に味方に組み入れれば大きな戦力となる宗茂に対して何もしないわけではありません。柳川13万2000石の大名の宗茂に対して、東軍に味方すれば、50万石という法外な恩賞で誘います。今の石高の4倍近い破格の待遇です。家康は多くの大名にも重い恩賞をちらつかせ、味方に組み入れようとしていましたが、この4倍もの破格の待遇は類を見ません。それだけ宗茂のことを重きにおいていたのでしょう。管理人がもし逆の立場であれば、「私のようなものにそこまで目をかけてくださる、身に余ります」(時勢もあるし、ここは東軍に味方しておこうか、4倍やぞ4倍)と考えてしまうでしょう。

しかし、宗茂の回答は、「いやしくも義に背いて生きんよりは死するに如かず」という拒絶でした。義に厚い宗茂ならでは回答です。

関ケ原の戦い後の島津義弘との合流

伊集院駅の島津義弘公像 日置市役所総務課秘書広報係 – 日置市役所, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

それぞれの戦について個別言及したいのですが、本項では割愛しています。(スイマセン)。関ケ原の戦いの前から、宗茂は大津城を攻略しており、たった1日で終わった関ケ原の戦いに間に合いませんでした。大坂城にて西軍総大将である毛利輝元に対しても徹底抗戦を主張するも叶わず、領地の柳川まで戻ることになりました。

その帰路の瀬戸内海周防国屋代島の日向泊において、関ケ原の戦で有名な正面突破して、血路を切り開いて退却してきた島津義弘公と出くわします。島津軍は正面突破後も追撃してくる徳川勢に対して、その撤退中にて「捨て奸」と呼ばれる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法をとりました。主君を逃がすための時間稼ぎとして、自らの命を犠牲にして敵の進軍を遅滞させるためです。関ケ原の戦いで中央突破開始時には300名近くいた島津勢で無事薩摩に帰れたものは80数名ということから、この段階においてもおそらく100名にも満たないボロボロになった島津勢だったわけです。

島津といえば、実の父である高橋紹雲の仇敵でもあります。宗茂の部下の中にはかつて高橋家の仕えていたものもいたはずです。この好機において、「今こそ父君の仇を討つべし」もしくは「60万石近い大大名である島津のNo.2を討ち取って家康への恭順を示してはどうか」という声もあったかと思います。

しかし宗茂は、「同じく西軍に味方しながら、寡兵を見て討ち取るというのは勇士のすることではない」と一喝したようです。むしろ、逆に、九州までの護衛を申し出て落ち武者狩りにやられないよう手厚く保護して柳川までは一緒に帰路につきました。

共に文永の役、慶長の役では同じ日本軍の武将の一人として、仲間として戦った島津義弘公とて、当地での立花宗茂の活躍は知っており、また宗茂もまた鬼島津と武名誉れ高い異名をとった島津義弘に対しての敬意もあったのでしょう。

その後、領地に戻った宗茂に対して、家康の命を受けた東軍の九州諸大名が連合で柳川へ攻めてきます。勇猛果敢な立花勢も奮戦します。立花勢苦境を知った島津義弘は薩摩から筑後柳川へ援軍を送ります。しかし、その援軍は間に合いませんでした。宗茂は黒田如水や盟友の加藤清正からの降伏勧告を受け入れ、城を明け渡した後での到着だったからです。

私が救出する!仲間を見捨てない

戦では、友軍が窮する時に援軍を差し向けることはよくある話ですが、宗茂が義の武将たるを示すエピソードを紹介したいです。

小西行長他4将を救出する!

『太平記英雄傳 小西摂津守行長』 小西行長の錦絵 Wikipedia パブリックドメインより加工

2回目の明との戦(慶長の役)において、秀吉の死後しばらくして撤退命令が下ります。日本軍と明・朝鮮軍の間で和議が行われました。無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした頃、豊臣秀吉死去の報が明軍に伝わると、和議を反故にし、順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようと城を包囲(海上封鎖含)する明・朝鮮軍。

順天城・順天倭城には、小西行長はじめ、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前ら4将の軍勢が取り残されていました。日本軍の中では軍議が開かれます。すでに撤退命令が出ており、これから戦っても何の益もないし、配下の兵隊達を自国に返したいと願う大名ばかりです。(一般的にはそう考えるでしょう。)

孤立して取り残されている武将達に対して特別な関係や主従なければ、自らの軍を危険にさらしてまで救援しにいこうとはなかなか思わないでしょうし、撤退できずにいる小西行長らを見捨てて帰国しようと主張する武将がいる中において、宗茂は、救援に向かう主張をします。

「共に戦ってきた仲間を見捨てて撤退をする、そのような不義理な事はできない。日本、武士の名に傷がつく。小西殿はじめ皆を救出するべきだ。」とでも主張したのでしょうか。この主張に賛同した武将は、島津義弘、小早川秀包(宗茂と義兄弟の契りをしている)、宗義智、筑紫広門、寺沢広高、そして宗茂の弟である高橋統増らで小西勢の救援に向かいます。露梁海峡で明・朝鮮軍と激突し、小西行長ら4将の救援に成功します。この戦いで、朝鮮水軍の名将の李舜臣が戦死しています。

すでに撤退が確定しており、出兵を決断した豊臣秀吉はすでに亡く、戦ったところで褒美や恩賞もない中で、ともに戦ってきた仲間を見捨てて撤退などできるわけもなかろうと主張し、賛同者を得て共に救援に向かい、それを成功させるという並大抵の大将ではないことは明らかです。

包囲されている加藤清正を救援する!

加藤清正公(京都市勧持院所蔵品) Wikipediaパブリックドメインより

こちらも慶長の役において、加藤清正がいる蔚山倭城を明・朝鮮軍29,500人が攻撃し、包囲され窮地に陥っていました。日本軍は評議を重ねますが、なかなか結論が出ない。関係諸将を尊重していた宗茂は最初はその議論を聞いていましたが、しびれを切らし、自身の考える策とともに自軍が救出することを主張。宗茂は敵よりも圧倒的に少ない兵ながらも策をもって敵を翻弄し、加藤清正の窮地を救いました。清正は、賤ヶ岳の七本槍の一人であり、その後各地で転戦する中でも豪傑と言われた武将の一人でありますが、その清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛されるのはこれもまた、宗茂の武略はもちろんのこと、その勇気とその類まれな才気を持つ立花宗茂と立花軍の働きには賞賛を送らずにはいられなかったことでしょう。

加藤清正と小西行長、同じ九州の大名であっても領地を接していたことによる領地争いやら、文治派・武断派との違いなのか、両者の中はよくなかったようですが、宗茂はそういった派閥関係なく、どのような武将に対して礼儀正しく、義を全うしたのだと思います。

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宗茂のことについては、また第二弾、第三弾のページにて整理していきたいと思います。宗茂の2人の父(立花道雪、高橋紹雲)についても整理しています。突っ込んでいえば、義兄弟の契りをしている小早川秀包の父は、あの有名な小早川隆景ですが、立花道雪と高橋紹雲のこの2人あってこその立花宗茂だと管理人は思っています。以下も参考までに。

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